ケーテ・コルヴィッツでゲージュツは爆発した

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これはドイツの19世紀末期の版画家、彫刻家ケーテ・コルヴィッツ晩年の自画像だ。
この作品をネット見つけたのは、この春受講していたFigure Drawing (ヌードのデッサン) のクラスで、Master Drawing(有名画家のデッサン)の模写の宿題が出て、どのマスターの作品にしようかと物色してた時だった。彼女のことはその時まで全く知らなくて、あれこれ探しているうちにこのドローイングに出会った訳だが、これがなかなかスゴイ体験だった。
模写をしながら、彼女が感じてた感情を体験、いや体験したと思えたのである。一見雑に見える線を真似しながら、線一本一本に込められたコルヴィッツの苦渋や絶望感、激しい情念までもがペン先に伝わってくる。描いているだけで、辛くなってくる、悲しくなってくる。大げさに聞こえるかもしれないけど、まるで彼女が乗り移った感覚があり、こんなことは初めてのことだった。

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これまで、Master Drawingの宿題は何度も出ていて、天才ダ・ヴィンチ(左)やミケランジェロ(右)、ドガ(下)という巨匠たちのデッサンの模写に挑戦して、まったく歯が立たないというか、模写してお近付きになろうなんて無理、初めから失礼いたしました、という惨敗感を味わってきた。それ自体は悪いことでは全然なくて、ただ鑑賞するだけだったら、決して知ることの出来なかった彼らのデッサンのスゴさを体験できたことは僥倖と言っていい。でも、模写しながら彼らの感情を体験する、ということはまったくなかった。

コルヴィッツに戻ろう。なぜ、こんなに強い感情を感じたのか。彼女の経歴を調べてみた。以下は安直でお恥ずかしいが、ウィッキーからの抜粋引用。ちょっと長いが、ぜひ彼女の生涯を知ってほしい。

 

彼女は1867年、東プロイセンケーニヒスベルク(現在のロシア領カリーニングラード)で、左官屋の親方である父カール・シュミット、母ケーテ・ループの間に生まれた。彼女は父の仕事場にいた職人から絵や銅版画を学び、父は17歳になった彼女をベルリンへ絵の勉強に行かせた。(中略)
1890年、彼女はケーニヒスベルクに戻り、港で働く女性たちの活動的な姿を版画に描くようになった。
1891年、結婚した彼女はベルリンの貧民街に移った。彼女は生涯描き続けた自画像に取り組む一方、スラムに住む彼女の周りの住民たちや夫の患者たちに強い印象を受け、貧困や苦しみを描く。

1897年に、ゲアハルト・ハウプトマン作の下層階級の人々を描いた戯曲『織匠』(Die Weber、1892年)を見た印象から制作した最初の版画連作『織匠』(織工の蜂起)を発表し、一躍脚光を浴びる。批評家からは絶賛を浴びたが、当時の芸術家のパトロンたちにとっては難しい題材であった。彼女はベルリンの『大展覧会(Große Kunstausstellung)』で金メダルにノミネートされたが、皇帝ヴィルヘルム2世は授賞に対する許可を与えなかった。

その後彼女はドイツ農民戦争を題材にした連作『農民戦争』(1908年)で評価され、版画に加えて彫刻も手がけるようになったが、1914年、第一次世界大戦の開戦一週間後に末息子のペーターが戦死した。社会全体に開戦への熱気が高まる中で息子のハンスとペーターが兵士に志願した際、彼女は止めるどころかむしろ後押ししてしまったこともあり、彼女は長い間悲しみにさいなまれた。

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戦後、彼女はペーターの戦死を基にした木版画による連作『戦争』(1920年)や労働者を題材にした『プロレタリアート』(1925年)を発表する一方、息子の死後17年間にわたり彫刻『両親』の制作を続け、1932年にベルギー・フランデレンのRoggevelde にあるドイツ軍戦没兵士墓地に設置された。後に、ペーターの葬られた墓地は近くのVlodslo に移転し、彫刻も移転している。彼女はその他、激戦地だったベルギー・ランゲマルク彼女は1919年、女性アーティストとしてはじめてプロイセン芸術院の会員に任命され、1929年にはプール・ル・メリット勲章を受章するなど、第一次世界大戦後の国家や社会の各層から高い評価を受け、多くの人々から親しまれた。一方で社会主義運動や平和主義運動にも関与し、『カール・リープクネヒト追憶像』の制作や、ドイツ革命後わずかな間存在した社会主義政府の労働者芸術会議に参加するなどの活動を行っている。

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1933年、ナチ党の権力掌握とともに「退廃芸術」の排斥が始まった。彼女も反ナチス的な作家とされ、芸術院会員や教授職から去るように強制された。彼女は最後の版画連作『死』および、母と死んだ息子を題材にした彫刻『ピエタ』(1937年)を制作するものの、1930年代後半以後は展覧会開催や作品制作など芸術家としての活動を禁じられた。宣伝省は人気のあった彼女の作品を『退廃芸術展』では展示しなかったものの、逆にいくつかの作品をナチスプロパガンダとして利用している。彼女の夫は1940年に病死し、孫のペーター(長男ハンスの息子)は東部戦線で1942年に戦死した。

1943年、彼女はベルリン空襲で住宅やデッサンの多くを失い、ザクセン王子エルンスト・ハインリヒの招きで、ベルリンからドレスデン近郊の町・モーリッツブルクに疎開し、モーリッツブルク城のそばのリューデンホーフという屋敷に住んだ。彼女は制作を禁じられた後もひそかに制作を続けており、最末期の作品には子供たちを腕の下に抱えて守り、睨みつける母親を描いた1941年の『種を粉に挽いてはならない』という版画作品がある。1945年4月22日、第二次世界大戦終結のわずか前、彼女は世を去った。

 

なぜ、私がこの自画像から多くの感情を体験したのか合点がいった。

ケーテ・コルヴィッツでゲージュツは爆発したのだ。

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