映画についてのあれこれ(2)

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ウッディ・アレンの映画を観るの辞めて2年になる。きっかけは、2018年に彼の成人した養女ディラン・ファローが、子供の頃に彼に性的虐待を受けたことを告発するYouTube を観たからだ。私は確信的に彼女の告発を信じた。

詳しい経緯を知りたい人は以下の記事を読んでほしい。

https://www.afpbb.com/articles/-/3158980

アレンは即その事実を否定、ディランはアレンを訴えたが訴追はなかった。その時、同じような状況下でアレンと関係を結び、その後結婚した35歳年下のスンイー・プレビンは彼の無実を主張する。スンイーはアレンのパートナーだったミア・ファローの養女で、つまり告発した女性とは血縁のない姉妹関係だ。夫の側に立って、勇気をもって告発した妹の行動を無化する態度は、許しがたい裏切り行為という思いを強くさせた。その後、彼の作品に出た俳優たちが、出演したことを恥ずかしいと思う、2度と彼の作品には出ない、などと発言してディランを支持。責任を回避したアレンを非難していたことが強く印象に残っている。

私も映画ライターとして何ができるかを考え、これから絶対アレンの映画を観ない、記事も書かないと決めた。ささやかな意思表示ではあるが、たぶん彼の映画を観ても、以前のように笑えないし、子供を性的に虐待しながら責任回避したゲスな奴というイメージは消えない。

監督個人ではなく映画を作品として客観的に評価する、なんて器用な芸当も出来そうにない。アレンの作品は嫌いではなかったし、何度も見直す作品もあったが、たぶんそれも封印すると思う。無理にではなくて、見直す気になれないからだ。

作品と作り手個人の行動を分けて考えるか、いや個人としての行動と作品を分けて考えることは出来ないと感じるのか、人それぞれの意見があるだろう。私はどうやら後者の方で、とりわけ性や人種に関して差別的な発言や行動をした作り手を応援する気にはなれない、、、、などと思いつつ、大矛盾の存在が脳裏を過ぎる。

 

 実はロマン・ポランスキー監督の『チャイナタウン』の封印が出来ない。

この映画はフィルムノアールの傑作の一つと言える作品で、私が映画ファンになったのは、このジャンルに魅了されたからだ。ジャン・ギャバンが出る『地下室のメロディー』(1963年)などのフランスのノアールものから、ハンフリー・ボガードの『脱出』や『マルタの鷹』などのアメリカのノアールものまで、ティーンの頃から何度も溺れるように見続けていきた。中学生の女子が、なぜ自分の日常とは無縁な孤独なギャングや探偵たちのクールで非情な世界に魅了されたのたのか。このジャンルの魅力を書き始めると止まらなくなりそうなので、『チャイナタウン』に戻ろう。

 

この映画は、1974年の公開後のリアルタイムで観て(新宿の映画館だった)以来、ビデオ、DVD、tv放映、ストリーミングなど何十年も観続けてきた。何がそんなに良いって? すべてが良かったとしか言えない。まず、テレンス・ブランチャードのトランペットによるテーマ曲が流れるだけで手が止まり、あの悲劇的な物語世界を思い出し、陶然となってしまうのだ。

https://www.youtube.com/watch?v=lmOhNyitewI&list=PL928E146E8B4EEF04&index=1t

時は1930年代、ロスのある探偵事務所に夫が行方不明だから探してくれと美しい女がやってくる。お決まりの探偵ものの導入だ。探偵はこの夫を探しをしながら、彼の失踪にからむロサンゼルスの巨悪に行き当たる。さらにはというか当然ながら、巨悪のクモの巣にかかって身動きの取れない女にも惹かれていく。彼女の苦悩の背後におぞましい家族の秘密があり、それが物語を悲劇的な結末へと導いていくのだ。探偵にジャック・ニコルソン、女にフェイ・ダナウェイ、巨悪のボスにジョン・ヒューストンという文句なしのキャスティングであり、私が愛して止まない映画の一つなのだ。

ところが、ここに大矛盾がある。問題は何かというと、監督のロマン・ボランスキーなのだ。

 ポランスキーは、当時13歳の子役モデルに性的行為をした嫌疑をかけられ逮捕、裁判で法定強姦の有罪の判決を受ける。彼は法廷外で無実を主張し、冤罪だと主張。少女とその母親に恐喝されたとまで言った。そして保釈中にアメリカを出国し、ヨーロッパへ逃亡し、1978年にフランスの市民権を取得。1979年の作品『テス』では主演のナターシャ・キンスキーと彼女が15歳の頃から性的関係を結んでいたことも発覚。その後も二人の女性から性的虐待を受けたと訴えられている。

ポランスキーは日本の男の多くがそうであるように、ローティーン少女に性的興奮覚えるらしい。事件発覚時は大騒ぎとなり、その後の経緯もリアルタイムで知っている。私は少女側の主張を信じるし、彼が欧州に逃亡したことは卑怯者の責任回避、判決に従うべきだと思っている。欧州に逃げた後も、少女と関係を持ち、何度か結婚し、映画を作りつづけ、確かに旺盛な創造力をみせつけたある種の「巨人」だと思うが、彼を巨匠などといって持ち上げる気はさらさらない。

 

問題はこんな男の映画を「愛して止まない」などと言っている自分だ。見直すたびに『チャイナタウン』の抗し難い作品の魅力に引き込まれ、封印できないのだ。アレン映画封印と完全に矛盾、上記でご立派な持論を書いたが、その反面のていたらくだ。

アレン封印も『チャイナタウン』問題も、矛盾しながら同時に自分の中に存在する。ひょっとするとアレン作品は『チャイナタウン』ほど私を魅了しなかったということに尽きるのかもしれない、などと無理やり矛盾を正当化してもあまり意味がないのだろう。

自分の抱える矛盾、そこから目と心を離さないこと。それぐらいの事しかできないのは情けないが、長く生きれば生きるほど、こういう解決のつかない問題が増えていく気がする。