個を全うする

私と同じ年の友人が亡くなった。知ったのは数日前。40年以上住んでいた日本を離れ、母国に帰って2年後だった。彼女とガンの付き合いは長く、最初に発病したのはたぶん20年以上前だったと思う。そして、一旦回復したガンが戻ってきたのは7-8年前、何やら面倒なガンで、体のあちこちに転移するタイプらしい。一度説明を受けたが、あまり良い感じはしなかった。その後は合う薬を探すのが大変とか、合う薬があったので体調は良いとか、の話を聞くことはあったが、あまり病気の話はしなかった。

 

早い時期から私に再発をカムアウトしてくれていたが、共通の友人の多くは知らないのでこの件は内緒にしてくれ、いつか時期が来たら自分から話すから、、、と言われていた。なぜ私だけに?の思いはあったが、私が海外に暮らしているので距離感があって言いやすかったのかもしれない。約束したことは守るタチなので、私は彼女をよく知る友人の誰にも再発のことは言わなかった。だから、彼女の話題が出るたびに曖昧な話をしていたと思うが、ずっと辛く感じていた。彼女が病気で大変な思いをしているなら、友達と共有したいという思いがあったのだが、今考えるとなぜだろう。たぶん、一人で彼女の秘密を守っていることが重かったのかもしれない。人に言えば軽くなる訳でもないのだが。

 

彼女は闘病という言葉が嫌いで、ガンと闘っているのではなくて、一緒に生きているという感じだと言っていた。そんな彼女にとって大切な仕事を共にしていた女性が3年前にあっという間にガンで亡くなってしまい、彼女は相当がっくりきて来た。まさか彼女が先に逝くなんて、、、と感じたようで、彼女と約束の仕事を終わらせるということがその後の彼女を支えることになったと思う。

 

そして2年前、東京で会った時に生まれた国に帰ると言って、私を仰天させた。医師から期間を区切られたというのだ。あと10ヶ月ほどで歩けなくなり、その状態が来たら最後は近づている、、、、と言われたようだ。しかも、相変わらず共通の友人たちはこの事情を知らない。「ねえ、でも日本を発つ前には皆に言ってよね」と私は懇願したが、結局彼女はほぼ誰にも帰国理由を言わず、帰っていった。

 

あの頃の彼女の体力を思うとこの決断は無謀としか思えなかった。何十年も暮らした日本の暮らしを清算し、引越し荷物をまとめる煩雑さを思っただけで気が遠くなる。また、たとえ母国と言っても、帰ってから新生活をスタートさせるのは元気な時でもかなりの気合いがいる。だが、人生の最後は母国に帰りたいという思いなのかもしれない、とも思った。ところが、そんな私の能天気な推測は大ハズレだった。

 

ここからが本題である。

彼女は残された期間に、自分が持っている預貯金でどこまで生活できるかを考えた。都心の病院に通っていたのだが、歩けなくなるとその病院の近くにアパートを借りなくてはならなくなる。だが、都心でバリアフリーのアパートを借りるほどの蓄えはない。そこで、為替レートも良く、物価も高くない母国に帰るのがベストだと思い至った。つまり、彼女は最後まで一人で生活できる場所を探していたのだ。

母国には弟家族がいるので、きっと彼のいる街に新居を構えるのだろうと私は勝手に思っていたのだが、彼女は「弟の世話にはなりたくないから」と未知の街を選んで引っ越していった。記憶違いがあるかもしれないが、引越し先は親友の住む街だったと思う。

 

彼女は一人になって、ひっそり逝きたかったのではなかったと思う。一人でできるギリギリまで自力で生活をし、自分らしく、個を全うできる場と生き方、逝き方を選んだのだと思う。奇しくも共通の友人が「もし日本にいたら、友達がいっぱい集まる盛大な葬儀ができただろうに」と言っていたが、そういうことも一切望んでいなかったのだろう。私はただただ感服、見事な生き方を見せてもらった、という思いが強い。

 

母国語の英語と日本語に加え、オペラを好きが高じてイタリア語もマスターした。プロとしての最上の仕事を続け、友人知人は多く、家の近所にも知り合いの多い社交的な人だった。両親思いで、素敵な思い出話を何度か聞いているが、父権的な家族制度に組み込まれることなく自分を全うする生き方を貫いたと思う。最後になって、弟家族の世話になりたくなかったのも当然、きっと彼女は自分がデザインした最後を迎えられたのではないだろうか。グロリアスな光が彼女を包んでいる光景が目に浮かぶ。

 

彼女は私が若い頃に出会った大切なレスビアン・フェミニストの一人、こんな凄い人を友とできた幸運を思う。