自分の庭でいつもジタバタ

この秋もコミュニティ・カレッジでアートのクラスを取り始めた。シルクスクリーンのクラスで、これは全くの未経験。木版画はしばらくやっているのだけど、勝手がちょっと違ってまだうろうろしている。

クラスは大学生世代の若い人がほとんどで、中には驚くほど完成度の高い作品を刷り出す女子がいて、感嘆している。才能を開花させている彼女らの作品群に触れると、正直なところ嫉妬を禁じ得ない。比べても意味がないことだが、私はこうした才能を持ち合わせてはいない、という厳然たる事実をクラスのたびに突きつけられている気がして、スタート早々に気分が弾まない。情けない奴ではあるのだが、このクラスが嫌かと言えばそうではない。色々な発見があってかなり面白い。

 

クラス自体はシルクスクリーンによる印刷方法を学ぶためにデザインされていて、毎回技術的なことのレクチャーを受けて、そのやり方を使って自分の作品を刷る。これが受講の評価になる。何を刷り出すかは、各自の創造力、デザイン力にかかっている訳で、刷り上がりは前述の通り一目瞭然。レンブラントとデ・クーニングを比較しても仕方がないように、アートは競争ではなし、各自がそれぞれの才能と努力から生み出す作品を比較しても意味がない。しかも、いい年をして若者の才気に嫉妬しているのも情けないので、ともかくも自分の才能らしきものの鉱脈を探すしかない。人の庭を見るな、自分の庭を耕せ、である。始まったばかりの今は、まさにその原則確認と我が道厳守を心がけている時期と言えるかもしれない。

 

シルクスクリーンは、木版画などと比べて、ぼかしなどの微妙な色の変化などを表現する絵画的な作品よりも、カッチリ、くっきりとしたデザイン的要素の強い作品やイラストレーションに向いていているように思う。だから、Tシャツやポスターのデザインを刷る生徒がほとんどで、Tシャツのデザインでは、素敵な作品を刷り出す人もいる。図柄自体の描写力よりも、シンプルな図柄の配置やレイアウト、色使い次第で、即着たくなるようながTシャツが出来上がる。例えば同じ図柄でも、胸に刷るのか、裾に刷るのかで、全然違った印象なるのだ。

 

ここ数年、もっぱら水彩や木版を使って、スケッチや写真などを元に具象で絵画的な作品を作ってきたので、デザイン性や独創的なアイディを要求されるこのクラスにドキマギしている。昔、DTPDesktop publishing、卓上出版で広告やマニュアル作りをしていたのでレイアウトやデザインの経験はあったのだが、あまり役にたってない気がする。商業的印刷物を完成させるのとは違った能力が要求されているという感じだ。ただ、オフセット印刷を発注する側だったので、製版作り、色分解、特色の知識があり、その知識は少し役にたっている。だが、シルクスクリーンの印刷はまだよく分からないのことが多い。

 

さて、自分の庭に戻ろう。人の庭にどんなに綺麗な花が咲こうが、私の庭に私なりの花を咲かせたい、その思いだけでアート世界の周辺にいる訳だが、正直なところジタバタしている。で、ふとクラスを見回すと、何人かの女子は一見楽々と、あっという間に作品を刷り出している。スマホ片手に何かをスケッチして、それをステンシルカット。愛らしい図柄をトートバックに印刷して一丁出来上がり。「可愛いねえ、これってあなたのオリジナル・デザインなの?」って聞くと、不審げな顔して頷く。(彼女たちの多くは決してフレンドリーではない。未知の年長者と会話することに慣れていないのか、冷たい対応は何度も経験済みだ。)

楽々、軽々というのが彼女らの印象で、資料やサプライをいっぱい持ち込んで、下書き製作にジタバタしている私とは大違いだ。彼女たちが軽々としているのは、ある程度自分のデザイン能力に自信があって、その守備範囲で作品作りをしているということと、出された課題をできる範囲でこなして楽に単位を取る、という戦略があるからのように見える。私は卒業や学位取得を目指してる訳ではないので、単位は関係なし。むしろ、自分なりの花を咲かせたい、みたいな作品作りへの過大な期待を持っているので、ジタバタするハメになっているだろう。当然と言えば当然のことだ。

 

ここでふと再確認。私はいつもジタバタしていないか。とりわけ、この島に越して来てからいつもジタバタしていると思う。車の免許取得や家探しなど未知の体験が多くなり、直面する事態の大小に関わらずジタバタと対応してきた。空気が読めず、世事に疎いからなのか、結果を出すことへの期待感が高まり力が入るすぎるのか、「物事を軽々と楽々とこなす」というポーズすら取れない自分がいると思う。

しかし、軽々と楽々とこなす人々が羨ましいか、と言えばノーだ。何十年も生きてきて、こういうやり方を作り上げてきた自分がいて、ジタバタしながらから見えたことや、感じたこと、考えたことがあったと思える。それは宝だ。無駄が多く遠回りな生き方ではあるが、それが私流。嫌いではない。