映画についてのあれこれ(2)

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ウッディ・アレンの映画を観るの辞めて2年になる。きっかけは、2018年に彼の成人した養女ディラン・ファローが、子供の頃に彼に性的虐待を受けたことを告発するYouTube を観たからだ。私は確信的に彼女の告発を信じた。

詳しい経緯を知りたい人は以下の記事を読んでほしい。

https://www.afpbb.com/articles/-/3158980

アレンは即その事実を否定、ディランはアレンを訴えたが訴追はなかった。その時、同じような状況下でアレンと関係を結び、その後結婚した35歳年下のスンイー・プレビンは彼の無実を主張する。スンイーはアレンのパートナーだったミア・ファローの養女で、つまり告発した女性とは血縁のない姉妹関係だ。夫の側に立って、勇気をもって告発した妹の行動を無化する態度は、許しがたい裏切り行為という思いを強くさせた。その後、彼の作品に出た俳優たちが、出演したことを恥ずかしいと思う、2度と彼の作品には出ない、などと発言してディランを支持。責任を回避したアレンを非難していたことが強く印象に残っている。

私も映画ライターとして何ができるかを考え、これから絶対アレンの映画を観ない、記事も書かないと決めた。ささやかな意思表示ではあるが、たぶん彼の映画を観ても、以前のように笑えないし、子供を性的に虐待しながら責任回避したゲスな奴というイメージは消えない。

監督個人ではなく映画を作品として客観的に評価する、なんて器用な芸当も出来そうにない。アレンの作品は嫌いではなかったし、何度も見直す作品もあったが、たぶんそれも封印すると思う。無理にではなくて、見直す気になれないからだ。

作品と作り手個人の行動を分けて考えるか、いや個人としての行動と作品を分けて考えることは出来ないと感じるのか、人それぞれの意見があるだろう。私はどうやら後者の方で、とりわけ性や人種に関して差別的な発言や行動をした作り手を応援する気にはなれない、、、、などと思いつつ、大矛盾の存在が脳裏を過ぎる。

 

 実はロマン・ポランスキー監督の『チャイナタウン』の封印が出来ない。

この映画はフィルムノアールの傑作の一つと言える作品で、私が映画ファンになったのは、このジャンルに魅了されたからだ。ジャン・ギャバンが出る『地下室のメロディー』(1963年)などのフランスのノアールものから、ハンフリー・ボガードの『脱出』や『マルタの鷹』などのアメリカのノアールものまで、ティーンの頃から何度も溺れるように見続けていきた。中学生の女子が、なぜ自分の日常とは無縁な孤独なギャングや探偵たちのクールで非情な世界に魅了されたのたのか。このジャンルの魅力を書き始めると止まらなくなりそうなので、『チャイナタウン』に戻ろう。

 

この映画は、1974年の公開後のリアルタイムで観て(新宿の映画館だった)以来、ビデオ、DVD、tv放映、ストリーミングなど何十年も観続けてきた。何がそんなに良いって? すべてが良かったとしか言えない。まず、テレンス・ブランチャードのトランペットによるテーマ曲が流れるだけで手が止まり、あの悲劇的な物語世界を思い出し、陶然となってしまうのだ。

https://www.youtube.com/watch?v=lmOhNyitewI&list=PL928E146E8B4EEF04&index=1t

時は1930年代、ロスのある探偵事務所に夫が行方不明だから探してくれと美しい女がやってくる。お決まりの探偵ものの導入だ。探偵はこの夫を探しをしながら、彼の失踪にからむロサンゼルスの巨悪に行き当たる。さらにはというか当然ながら、巨悪のクモの巣にかかって身動きの取れない女にも惹かれていく。彼女の苦悩の背後におぞましい家族の秘密があり、それが物語を悲劇的な結末へと導いていくのだ。探偵にジャック・ニコルソン、女にフェイ・ダナウェイ、巨悪のボスにジョン・ヒューストンという文句なしのキャスティングであり、私が愛して止まない映画の一つなのだ。

ところが、ここに大矛盾がある。問題は何かというと、監督のロマン・ボランスキーなのだ。

 ポランスキーは、当時13歳の子役モデルに性的行為をした嫌疑をかけられ逮捕、裁判で法定強姦の有罪の判決を受ける。彼は法廷外で無実を主張し、冤罪だと主張。少女とその母親に恐喝されたとまで言った。そして保釈中にアメリカを出国し、ヨーロッパへ逃亡し、1978年にフランスの市民権を取得。1979年の作品『テス』では主演のナターシャ・キンスキーと彼女が15歳の頃から性的関係を結んでいたことも発覚。その後も二人の女性から性的虐待を受けたと訴えられている。

ポランスキーは日本の男の多くがそうであるように、ローティーン少女に性的興奮覚えるらしい。事件発覚時は大騒ぎとなり、その後の経緯もリアルタイムで知っている。私は少女側の主張を信じるし、彼が欧州に逃亡したことは卑怯者の責任回避、判決に従うべきだと思っている。欧州に逃げた後も、少女と関係を持ち、何度か結婚し、映画を作りつづけ、確かに旺盛な創造力をみせつけたある種の「巨人」だと思うが、彼を巨匠などといって持ち上げる気はさらさらない。

 

問題はこんな男の映画を「愛して止まない」などと言っている自分だ。見直すたびに『チャイナタウン』の抗し難い作品の魅力に引き込まれ、封印できないのだ。アレン映画封印と完全に矛盾、上記でご立派な持論を書いたが、その反面のていたらくだ。

アレン封印も『チャイナタウン』問題も、矛盾しながら同時に自分の中に存在する。ひょっとするとアレン作品は『チャイナタウン』ほど私を魅了しなかったということに尽きるのかもしれない、などと無理やり矛盾を正当化してもあまり意味がないのだろう。

自分の抱える矛盾、そこから目と心を離さないこと。それぐらいの事しかできないのは情けないが、長く生きれば生きるほど、こういう解決のつかない問題が増えていく気がする。

 

映画についてのあれこれ ⑴

 

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昨日、久しぶりに北野武監督の『HANA-BI』を観た。もう何回観たか、分からない。見るたびに良く出来ているなと感心する。とりわけコロナで家籠りが長くなって、新作映画を中心に映画三昧の日々なのだが、見る作品も玉石混合というか玉より石が多い状態が続いていたからで、そういう時にこういう作品を見ると目が醒めるような体験をする。『HANA-BI』の何が良いのか、ある感覚が作品の最初から最後までぴーんと張られた糸のように緩みなく描き切られていたことだと思う。

退職した刑事が、彼の人生に次々におきた不運な出来事を通して生きることに疲れ果て、生そのものを倦んでいく。その感覚が、激しい暴力描写を挟みなら描かれていく。展開には乱れがなく、決して後戻りできない負のパワーがグイグイと直進していく。北野はこの作品を恋愛映画だと言っていたような記憶があるのだが、彼が作ると恋愛映画もこんな風になるのだ。しかも、悲劇的な物語でもあるのに、そこかしこに笑いの要素を散りばめてあるのも、奇妙にリアリティがあり、さすが漫才師出身の北野武らしいなと感心した。

笑いは悲劇の中でこそ深い味わいがあるというものだ。

笑つつ地獄へまっしぐらの『ソナチネ』にも似たような感覚が張り詰めていた。こういう映画は彼しか作れない気がする。

ただ、これらの作品が好きかというと、好きとは言い難い。上手いなあと感心するけれど好きとは言えない、もどかしい映画である。

久石譲の音楽は好きで、彼がテーマ曲を担当した北野作品は3割ほど作品の味わい良くなっている気がする。動画という料理に極上のソースが掛かっている感じだ。

作品を高く評価して何度も観るのだが、好きとは言えない、というのは映画好きが抱える面倒なモンダイだと思う。北野作品はそういう意味で悩ましい作品が多い。

では好きな映画とはどういう映画かというと、単純に自分に訴えかける何かがある映画、嬉しくてワクワクした映画、ハートをゴンゴン叩かれた映画ということになるのだと思う。その点から言うと北野作品は、上記のどれにも当てはまらない、つまりは私個人という人間の体験からは遠いところにある映画ということになるのだろう。

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しかし、犯罪映画だから好きなれないのではないのだ。実は犯罪映画の『野良犬』(黒澤明監督)はかなり好き、黒澤映画の中で一番好きな作品でもある。

暑い夏の日、バスの中で拳銃を奪われた新米刑事が主人公。迂闊にも銃を奪われ自責の念に押し潰されそうになりながら、必死で犯人を追っていく若い刑事は、何度も何度も捜査の糸口を見失っては焦り、それでも諦めずに何度も立ち上がっていく。その姿が、自分がかつて取り返しのつかないことをしてしまった時の体験と重なって、ヒリヒリと胸に迫ってくるのだ。

黒澤初期の白黒映画だが、戦後の混沌とした町の様子や、芸達者な俳優たちによって怪演される市井の人々の風貌がきちんと描きこまれて、黒澤らしい完璧な映画作りの萌芽が垣間見えるのも良かった。

私が失くしたのは拳銃のような物騒なものではなく、友の信頼であったり、父が大切にしていたものであったり、、。生きていれば、きっと誰も体験するようなことやものを失った。取り返しのつかないものの方が多いが、それが生きるということなんだろう。

そんなことを思い出させてくれる、そういう映画に出会える幸せを求めて、毎日映画を観続けている。

 

 

 

自分の庭でいつもジタバタ

この秋もコミュニティ・カレッジでアートのクラスを取り始めた。シルクスクリーンのクラスで、これは全くの未経験。木版画はしばらくやっているのだけど、勝手がちょっと違ってまだうろうろしている。

クラスは大学生世代の若い人がほとんどで、中には驚くほど完成度の高い作品を刷り出す女子がいて、感嘆している。才能を開花させている彼女らの作品群に触れると、正直なところ嫉妬を禁じ得ない。比べても意味がないことだが、私はこうした才能を持ち合わせてはいない、という厳然たる事実をクラスのたびに突きつけられている気がして、スタート早々に気分が弾まない。情けない奴ではあるのだが、このクラスが嫌かと言えばそうではない。色々な発見があってかなり面白い。

 

クラス自体はシルクスクリーンによる印刷方法を学ぶためにデザインされていて、毎回技術的なことのレクチャーを受けて、そのやり方を使って自分の作品を刷る。これが受講の評価になる。何を刷り出すかは、各自の創造力、デザイン力にかかっている訳で、刷り上がりは前述の通り一目瞭然。レンブラントとデ・クーニングを比較しても仕方がないように、アートは競争ではなし、各自がそれぞれの才能と努力から生み出す作品を比較しても意味がない。しかも、いい年をして若者の才気に嫉妬しているのも情けないので、ともかくも自分の才能らしきものの鉱脈を探すしかない。人の庭を見るな、自分の庭を耕せ、である。始まったばかりの今は、まさにその原則確認と我が道厳守を心がけている時期と言えるかもしれない。

 

シルクスクリーンは、木版画などと比べて、ぼかしなどの微妙な色の変化などを表現する絵画的な作品よりも、カッチリ、くっきりとしたデザイン的要素の強い作品やイラストレーションに向いていているように思う。だから、Tシャツやポスターのデザインを刷る生徒がほとんどで、Tシャツのデザインでは、素敵な作品を刷り出す人もいる。図柄自体の描写力よりも、シンプルな図柄の配置やレイアウト、色使い次第で、即着たくなるようながTシャツが出来上がる。例えば同じ図柄でも、胸に刷るのか、裾に刷るのかで、全然違った印象なるのだ。

 

ここ数年、もっぱら水彩や木版を使って、スケッチや写真などを元に具象で絵画的な作品を作ってきたので、デザイン性や独創的なアイディを要求されるこのクラスにドキマギしている。昔、DTPDesktop publishing、卓上出版で広告やマニュアル作りをしていたのでレイアウトやデザインの経験はあったのだが、あまり役にたってない気がする。商業的印刷物を完成させるのとは違った能力が要求されているという感じだ。ただ、オフセット印刷を発注する側だったので、製版作り、色分解、特色の知識があり、その知識は少し役にたっている。だが、シルクスクリーンの印刷はまだよく分からないのことが多い。

 

さて、自分の庭に戻ろう。人の庭にどんなに綺麗な花が咲こうが、私の庭に私なりの花を咲かせたい、その思いだけでアート世界の周辺にいる訳だが、正直なところジタバタしている。で、ふとクラスを見回すと、何人かの女子は一見楽々と、あっという間に作品を刷り出している。スマホ片手に何かをスケッチして、それをステンシルカット。愛らしい図柄をトートバックに印刷して一丁出来上がり。「可愛いねえ、これってあなたのオリジナル・デザインなの?」って聞くと、不審げな顔して頷く。(彼女たちの多くは決してフレンドリーではない。未知の年長者と会話することに慣れていないのか、冷たい対応は何度も経験済みだ。)

楽々、軽々というのが彼女らの印象で、資料やサプライをいっぱい持ち込んで、下書き製作にジタバタしている私とは大違いだ。彼女たちが軽々としているのは、ある程度自分のデザイン能力に自信があって、その守備範囲で作品作りをしているということと、出された課題をできる範囲でこなして楽に単位を取る、という戦略があるからのように見える。私は卒業や学位取得を目指してる訳ではないので、単位は関係なし。むしろ、自分なりの花を咲かせたい、みたいな作品作りへの過大な期待を持っているので、ジタバタするハメになっているだろう。当然と言えば当然のことだ。

 

ここでふと再確認。私はいつもジタバタしていないか。とりわけ、この島に越して来てからいつもジタバタしていると思う。車の免許取得や家探しなど未知の体験が多くなり、直面する事態の大小に関わらずジタバタと対応してきた。空気が読めず、世事に疎いからなのか、結果を出すことへの期待感が高まり力が入るすぎるのか、「物事を軽々と楽々とこなす」というポーズすら取れない自分がいると思う。

しかし、軽々と楽々とこなす人々が羨ましいか、と言えばノーだ。何十年も生きてきて、こういうやり方を作り上げてきた自分がいて、ジタバタしながらから見えたことや、感じたこと、考えたことがあったと思える。それは宝だ。無駄が多く遠回りな生き方ではあるが、それが私流。嫌いではない。

夫も子供も孫もいません。

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自慢の猫


先日女性ばかりの職場でボランティアをしている際、あるローカル女性と自己紹介を兼ねて「結婚もしていないし、子供も孫もいないのです。自分自分ってことに拘って生きてきました。」という話をした。すると翌週その女性が、他の女性が数人いるところで「この人はね、結婚もしてなくて、子供も孫もいないんだって」って大声で言い放った。別に隠したいことでも、恥ずかしいことでもないが、こういうことを本人に確認することもなく勝手に言うってのは、いかがなものか。しかも、彼女の声にはちょっと硬さがあって、妙に感じた。

 

その後、彼女がFBで友達リクエストしてきたのでオッケーしたら、彼女のポスティングがどんどん入ってきた。それらは孫と子供、家族との行楽写真オンパレード、孫自慢、家族自慢が主流だった。たぶん、幼馴染や親戚などに孫たちの近況を知らせる用途もあるのだと思うが、それにしてもかなりの数。彼女にとってたくさんの孫がいること、家族が誇りなんだということがよく分かる気がした。

 

この島に来てから知り合った同世代の女性のFBポスティングの多くは家族か旅行、食い物の写真と相場が決まっている。ということは、知人たちの家族アルバムを半ば強制的に見る羽目になっている訳で、会ったこともない人々の集合写真を見ている私は、何をやっているのかという気分になる。明らかに「いいね」を押して欲しそうな写真もあるので、お付き合いで「いいね」を押している自分にも呆れてくる。何をやっているんだ! 

私が見せびらかしたくなるのは飼い猫の写真ぐらいだから、落差は大きい。

それにしても前述の彼女、子供も孫もなく一人で生きている私をどうとらえていいのか分からなかったのかもしれない。それとも、やや批判的に女として半人前と感じたのだろうか。

 

ただ、同世代のFB友達でも家族写真を一切載せない人も多くいて、そういう人のポスティングは面白い。彼女彼たちの多くは絵描きや版画仲間で、共通の興味を持つ知人を持てた幸運を思う。FBをやっている人とやっていない人では、自分への満足度に大きな違いがあるとか、いうような調査結果やFB批判はある程度知っていて、納得、その通りだと思う。日本にいる旧友の殆どはFBをやっていないし、若い人はインスタグラムらしいということも聞いている。それやこれやを納得しても、前述の知人たちのポスティングが面白くてFBを続けている。

 

話を進めよう。私の住む町は日系の人が多いので、日本的ムラ社会体験をすることが多いような気がする。初対面の自己紹介が済み、どうでも良い会話の後、必ず聞かれるのが、旦那はいるの?子供は?孫は?の質問。いいえ、夫も子供も孫もいないんですよ、と返したところで多くの人は言葉に詰まる。この時のキョトンとした顔も皆同じだ。近年は両親も鬼籍に入っているので、家族の話題はゼロ。ますます話すことがない。あああ、、、困った、話題が見つからない、どうしようう、、、、なぜか私が気を使っているのが、奇妙だ。

 

一度ローカルの女性に空港まで車で送ってもらえないかと頼んだことがあって、その返答に驚いた。「構わないけど、どうして弟さんに頼まないの?」と聞いてきたのだ。言い遅れたが、同じ町に弟夫婦が住んでいる。親しくないし、付き合いもほとんどないので、できれば友達にライドを頼もうと思った訳だが、甘かった。家族がいるならまず家族同士が助け合うべき、それが彼女のルールなのかもしれない。彼女のルールは尊重するが、私にも生き方の選択がある。困った時はまず家族、という生き方はしてこなかった。なぜ、そうなったかについては、以前に書いたブログを読んで欲しい。

 

この町で直面するのも父権的家族制度の壁である。

家族と付き合わない、女が一人でいることが悪いことのように感じさせられる、そんな環境がある。女なら結婚をして、子を産み、孫に繋げる。かなり古めかしい価値観のように感じるかもしれないが、日本でもまだまだ王道の生き方ではないだろうか。この町に住んで、上記のような体験を続けてくると、自分は半人前扱いなのだろうと推察がつく。米国本土に住んでいた時に、こんな風に感じることがなかったので尚更だ。たぶん、単純に付き合う人たちが変わったというだけなのだろうが、同類を見つけるのはなかなか難しい街であることは確かだ。

 

日本でハワイは憧れのパラダイスということになっているようだが、旅行で来るのと生活するのとは大違いだと思う。それは日本も同じだろう。憧れの日本にアジアの国から技能実習生などで来た人の多くが、差別的扱いを受け、失望を抱えて日本を去っていく現実と同じ。日本は観光で行くにはサイコーなところかもしれないが、働きに行くようなところではない気がする。

 

米国本土からハワイに移転してきた人の75%以上が数年以内に、本土へ逆戻りという話を聞いたことがある。地元の人は本土から来た主に白人をハウリと呼んで区別する。私も白人ではないが、「本土から来ているからあなたもハウリだ」と言われたこともある。よそ者ってことなんだろう。観光で来て金を落としてくれるハウリなら大歓迎だろうが、地元に根付かれては困るという空気は鈍感な私でも感じる。この街の人口が増えず、30年以上前に来た頃とあまり街に変化がない、というのも当然なんだと思う。

 

ああ、ハワイ。温暖な気候や自然に恵まれたパラダイスだと思い、こんな素晴らしい土地に住める幸運に感謝する毎日だ。だが、一人で住み続けることの難しさも多い。そんな島に6年、火山の爆発とともに私という火山も小バクハツを続けている。

 

個を全うする

私と同じ年の友人が亡くなった。知ったのは数日前。40年以上住んでいた日本を離れ、母国に帰って2年後だった。彼女とガンの付き合いは長く、最初に発病したのはたぶん20年以上前だったと思う。そして、一旦回復したガンが戻ってきたのは7-8年前、何やら面倒なガンで、体のあちこちに転移するタイプらしい。一度説明を受けたが、あまり良い感じはしなかった。その後は合う薬を探すのが大変とか、合う薬があったので体調は良いとか、の話を聞くことはあったが、あまり病気の話はしなかった。

 

早い時期から私に再発をカムアウトしてくれていたが、共通の友人の多くは知らないのでこの件は内緒にしてくれ、いつか時期が来たら自分から話すから、、、と言われていた。なぜ私だけに?の思いはあったが、私が海外に暮らしているので距離感があって言いやすかったのかもしれない。約束したことは守るタチなので、私は彼女をよく知る友人の誰にも再発のことは言わなかった。だから、彼女の話題が出るたびに曖昧な話をしていたと思うが、ずっと辛く感じていた。彼女が病気で大変な思いをしているなら、友達と共有したいという思いがあったのだが、今考えるとなぜだろう。たぶん、一人で彼女の秘密を守っていることが重かったのかもしれない。人に言えば軽くなる訳でもないのだが。

 

彼女は闘病という言葉が嫌いで、ガンと闘っているのではなくて、一緒に生きているという感じだと言っていた。そんな彼女にとって大切な仕事を共にしていた女性が3年前にあっという間にガンで亡くなってしまい、彼女は相当がっくりきて来た。まさか彼女が先に逝くなんて、、、と感じたようで、彼女と約束の仕事を終わらせるということがその後の彼女を支えることになったと思う。

 

そして2年前、東京で会った時に生まれた国に帰ると言って、私を仰天させた。医師から期間を区切られたというのだ。あと10ヶ月ほどで歩けなくなり、その状態が来たら最後は近づている、、、、と言われたようだ。しかも、相変わらず共通の友人たちはこの事情を知らない。「ねえ、でも日本を発つ前には皆に言ってよね」と私は懇願したが、結局彼女はほぼ誰にも帰国理由を言わず、帰っていった。

 

あの頃の彼女の体力を思うとこの決断は無謀としか思えなかった。何十年も暮らした日本の暮らしを清算し、引越し荷物をまとめる煩雑さを思っただけで気が遠くなる。また、たとえ母国と言っても、帰ってから新生活をスタートさせるのは元気な時でもかなりの気合いがいる。だが、人生の最後は母国に帰りたいという思いなのかもしれない、とも思った。ところが、そんな私の能天気な推測は大ハズレだった。

 

ここからが本題である。

彼女は残された期間に、自分が持っている預貯金でどこまで生活できるかを考えた。都心の病院に通っていたのだが、歩けなくなるとその病院の近くにアパートを借りなくてはならなくなる。だが、都心でバリアフリーのアパートを借りるほどの蓄えはない。そこで、為替レートも良く、物価も高くない母国に帰るのがベストだと思い至った。つまり、彼女は最後まで一人で生活できる場所を探していたのだ。

母国には弟家族がいるので、きっと彼のいる街に新居を構えるのだろうと私は勝手に思っていたのだが、彼女は「弟の世話にはなりたくないから」と未知の街を選んで引っ越していった。記憶違いがあるかもしれないが、引越し先は親友の住む街だったと思う。

 

彼女は一人になって、ひっそり逝きたかったのではなかったと思う。一人でできるギリギリまで自力で生活をし、自分らしく、個を全うできる場と生き方、逝き方を選んだのだと思う。奇しくも共通の友人が「もし日本にいたら、友達がいっぱい集まる盛大な葬儀ができただろうに」と言っていたが、そういうことも一切望んでいなかったのだろう。私はただただ感服、見事な生き方を見せてもらった、という思いが強い。

 

母国語の英語と日本語に加え、オペラを好きが高じてイタリア語もマスターした。プロとしての最上の仕事を続け、友人知人は多く、家の近所にも知り合いの多い社交的な人だった。両親思いで、素敵な思い出話を何度か聞いているが、父権的な家族制度に組み込まれることなく自分を全うする生き方を貫いたと思う。最後になって、弟家族の世話になりたくなかったのも当然、きっと彼女は自分がデザインした最後を迎えられたのではないだろうか。グロリアスな光が彼女を包んでいる光景が目に浮かぶ。

 

彼女は私が若い頃に出会った大切なレスビアン・フェミニストの一人、こんな凄い人を友とできた幸運を思う。

 

祖母とパチンコ、酒とプロレスと、、、

母方の祖母とは彼女が亡くなるまで一緒に生活した。私が小6の時に脳溢血で倒れ、入院することもなく、薄暗い自宅3畳間で二日間ほど大いびきをかいたのち、あっという間に亡くなった。私には老婆にしか見えなかったが、享年は63歳。アルコール依存症が彼女を老いさせたように思う。

八丈島の出身で、網元で大きな旅館も経営していた裕福な家の末娘だったという。よそ者の理容師の祖父と結婚し、その後東京に出てきた。結婚後も何もせず派手な着物を着て遊びまわっていたというのが母の話。どこでどう遊んでいたのか。浅草辺りの繁華街か、酒場か、博打場か、内実はわかないが、不良の匂い芬々たる人だった。

母が結婚して私が生まれ、理容店を始めて大忙しな頃、家事一切を任された。だが、家事嫌いでパチンコばかりしていたので、母はよく私に祖母をパチンコ屋から連れ帰るよう命じた。夕飯の支度をさせねばならなかったからだ。
パチンコ屋で私の顔をみた祖母はいつも怖い顔になり、鋭い声で床に落ちたパチンコの玉を拾ってこいと命じるのが常だった。
5-6歳だった私は仕方なしに、四つん這いになって玉拾いをし、見つけると嬉しくなったものだ。しかし、チンジャラジャラ、チンジャラジャラのパチンコ音と軍艦マーチが耳をつんざく中で、店員に見つかると「出てこい!」と怒鳴られるのも常で、結構ビビりながら拾っていた。
祖母を迎えにパチンコ屋、玉拾いのルーティンはその後何年も続いて、弟を連れて行くようになってからは二人で玉拾いをしたと思う。大したタマである。

料理が嫌いだから下手くそで、特にひどかったのはサバのみそ煮だった。彼女がサバを煮た後は必ず数日間生臭いサバの匂いが家中に立ち込めた。私はすっかりサバ嫌いになり、いまだにサバのみそ煮は食べたことがない。
当時好きだったのは、卵かけご飯と肉屋で買ってきたコロッケ。祖母の手が入っていないから食べられたのだと思う。コロッケの夕食の時は、皿にコロッケが2つのせてあるだけで、付け合せのキャベツも何もなかった。今思うと荒れた食卓であったが、他の家の食卓を知らなかったので、こんなものだと思っていた。

あの頃は醤油、油、味噌も酒もすべて近所の酒屋から量り売りで買っていた。瓶入り、袋入りが売り出されるようになったのは、1960年代頃だったのでないだろうか。量り売りの調味料を近所の酒屋に買いに行くのも私の役目で、祖母が毎日飲む酒も、平手造酒と筆字で書かれた5合入りの大徳利を持って、私が買い行った。

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5合徳利


祖母は、当時唯一の暖房器であった練炭火鉢のそばで、スルメイカを焼きながら5合をきっちり飲んでいた。機嫌の良いの時は八丈島の歌を身振り手振りに合わせながら、歌っていた。だが、なぜかその歌の節すら思い出せない。祖母の酔い方は上出来のミステリー映画みたいに予測がつかず、機嫌の悪い時は酒を買いに行けだの、夕食など作らないなど、と無茶苦茶を言うので、私にはずっと怖い人だった。

祖母が大好きだったのは、三波春夫とプロレス中継(*1)で、力道山全盛期時代だったこともあって、祖母の熱中ぶりは大変なものだった。何があれほど彼女を狂わせたのか、血が騒ぐという表現がピッタリのハマりようだった。あの頃は、まだ多くの家にテレビがなかったので、プロレス中継となると近所の人は電気屋のショーウインドに飾られたテレビの前に集まって鑑賞という状態だった。あの黒山の人だかりの中に小柄な祖母もいて、声援を送りながら見ていたのだろう。電気屋のプロレス中継にはいつも騒然とした、暴力的なムードが漂っていて、私たち子供は危なくて近ずけなかった。何しろ、時々酒に酔って興奮した見物人同士でプロレスさながらの殴り合いが繰り広げられていたのだ。皆の血が騒いでいた時代だったのだろう。

子供のテレビ鑑賞は、もっぱら近所の駄菓子屋、通称「がっつき屋」でだった。5円出すと一人30分だけ座敷に上がってディズニーワールドやポパイなどのアメリカのTV番組を見ることができたのだ。あの頃は日本で子供向けに作られたTV番組など全然なかったので、アニメもホームドラマもすべてアメリカ製、「ビーバーちゃん」とか「パパは何でも知っている」などなど。力道山が、白人金髪のブラッシー(*2)とかいうレスラーに空手チョップをお見舞いし、大人たちの血を騒がせていた頃、子供達はアメリカ製のアニメやホームドラマでうっとりと「文化的」生活に憧れ、洗脳を受けていたというのも皮肉なものだ。

余談になるが、「がっつき屋」は冬はおでんともんじゃ、夏はかき氷を出していたが、何しろ店を仕切るおばさんが怖かった。冬はもんじゃを食べるために集まる子供達の社交場でもあったが、グズグズ焼いて長居をしていると必ず怒鳴られた。おでんを買う時に誤って10円玉をおでん鍋に落としたことがあったが、「もう一度金持ってこい」と怒鳴られ仰天した。落とした10円は払ったことにならないのだ。憤慨したがおばさんの威圧的な声にクチュンとなって帰宅した。あのおでん鍋にはどれほどの10円玉が溜まっていただろうか。良い出汁になっていたに違いない。ともかくも、近所でも早々にテレビを買い込み、子供から金を取ってアニメを見せたビジネス力は大したものだと思う。

プロレス中継は、テレビの一般家庭への普及の大いに役だったマンモス番組だったと思う。当時の皇太子が一般人の女性と結婚(1959年)することになって、そのパレードを見るために一気にテレビが普及したというのが表向きのTV普及史だが、私はプロレス中継こそがテレビの普及に貢献したと思っている。

祖母への想いは複雑だが、私の生涯を支えてくれる映画との出会いを作ってくれたという大恩がある。その件については次回に書こうと思う。

*1:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%83%97%E3%83%AD%E3%83%AC%E3%82%B9%E4%B8%AD%E7%B6%99

*2:https://ja.wikipedia.org/wiki/フレッド・ブラッシー

フェミニスト・アートの歴史

以下は2011年に米国で公開されたフェミニスト・アートに関するドキュメンタリー映画『!Women Art Revolution』(!W.A.R 戦争の意)の紹介文です。今見ても充分楽しめる映画で、ゲージュツが大爆発している。

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写真クレジット:A Zeitgeist Films Release


このドキュメンタリー映画は「あなたの知っている女性アーティストの名前を挙げてください」という問いかけから始まる。あなたは何人の名前をあげられるだろう。

フリーダ・カーロジョージア・オキーフ、ルイーズ・ブルジョア…10人の名前を挙げられる人はほとんどいないのではないだろうか。
本作は、アメリカで60年代後半から70年代にかけてフェミニストアート(以下FA)運動を担ってきた多くの女性アーティストのインタビューと、彼女らの活動や作品、パフォーマンスの貴重な映像を集めて見せてくれる刺激的な映画だ。


登場するアーティストの数40余名、私は彼女らの名前をまったく知らなかった。ところが、当時若かった彼女たちがユーモアを交えて女性アーティストを巧妙に閉め出し、差別する男性中心のアートワールドを語る映像に、同じ時期日本でウーマンリブの運動をしていた自分を見るような親近感を感じた。ともかく快活で元気いっぱいなのだ。そして21世紀になって当時を振り返る彼女たちの年齢を重ねた顔と内省を経た意見に、またしても自分が重なる。


監督はビデオアーティストのベテラン、リン・ハーシュマン・リーソンで、60年代後期から仲間の女性アーティストへのインタビューを映像として撮り続け、本作は彼女の40余年にわたる記録の集大成でもある。97年にティルダ・スワンソン主演で『クローン・オブ・エイダ』で初めて劇映画も作っている。詩人バイロンの娘で人類初のコンピュータ・プログラミングに関わったエイダ・ラブレスの物語で、アーティスティックで難解な作品傾向だが、本作は実に分かりやすかった。




FA運動といっても組織されて系統立てて展開された訳ではなく、西海岸や東海岸の大都市にいた女性アーティストたちが、公民権ウーマンリブベトナム反戦運動などの時代のうねりの中で、散発的に個人または小グループとして活動を展開していたようだ。だから、本作で紹介されるアーティストやその活動も多種多様。もっと見たい、一人一人の活動や作品をもっとじっくり知りたいという気にさせられた。


そんな中で大きな動きの一つは、ミリアム・シャピロがジュティ・シカゴを呼んで始めたカリフォルニア芸術大学(通称カルアート)のFAプログラムの開設かもしれない。シカゴはフレスノ大学でFAのクラスを教えていたのだが、彼女の生徒がFAについて演説をしている時に男が突然壇上に上がって彼女を殴るという事件があった。きっとラディカルな意見を述べていたのだろう。
シャピロがシカゴに声を掛けたのはそんな経緯があったようだ。二人はその後にウィメンハウスという建物を得て、そこで女性だけのクラスを開設して精力的な討論、作品制作、展示をしていく。シカゴの有名な「ディナー・パーティ」(注1)はこんな環境の中で生まれていったようだ。


本作を通じて強く印象に残った人はシカゴで、激しい調子で自分の意見を述べ立てる彼女を見ていて、ある日本の女性活動家を思い出した。FAというとシカゴの「ディナー・パーティ」がまず思い浮かぶのと同様に、日本のウーマンリブについて語ろうとすると必ず出てくる人だ。この二人、明快なビジョンと行動力を持ち、強烈な個性で他の女性たちを圧倒するパワフルな感じがよく似ている。
日本と米国という違いを越えて共通の資質をもった二人の女性が結果的にある時代を象徴するアイコンと化したのである。壮大な作品「ディナー・パーティ」は多くのクラフト・ウーマンたちの協力によって製作されているが、彼女らの名前を知る人はいない。本作のポスターにある「一人一人の女性の成功は私たちすべての成功である」というフェミニズムの理想は女性たちにとって実感されたのだろうか。だからこそ本作の意味は大きく、シカゴ以外にも多くのアーティストの仕事ぶりが紹介されているのは、うれしい。


地元のギャングを組織して世界一長い壁画を描かせたジュディ・バッカや、10年間近く偽装した人格と名前を持って生活をするという驚異的なパフォーマンスを続けたリーソン監督、全身に毛を纏うパフォーマンスをして女のアイデンティティに挑戦したアナ・メンディエタ、動物を解体する過程を「どこから肉は来たのか」という題名の衝撃的な連続写真にしたスザンヌ・レイシー、非装飾的なミニマル・アートに対向して、クラフトや装飾品などの女性の感性を作品に取り入れたジョイス・コズロフ、前出の「一人一人の女性の成功…」の名言をはいたホイットニー美術館で女性初のキューレーターになったマーシャ・タッカー、80年代後半になって美術館やギャラリーの性差別そのものへの抗議行動を開始した覆面女性グループ「ゴリラガールズ」の楽しい活動などなど、男性中心主義が支配するアートワールドの常識に挑むラディカルな作品や試みがいっぱい紹介されている。


最後に現在の若い女性アーティストがまったくFAの存在を知らされていないことが指摘され、先達たちの先見性や今日性を思うと残念でならなかった。リーソン監督の撮った貴重なインタビュー映像はスタンフォード大学のデジタル・コレクション・アーカイブにアップされているので、英語が苦手でない人はぜひ覗いてみて欲しい。


http://lib.stanford.edu/women-art-revolution

上映時間:1時間23分。


英語公式サイト:http://womenartrevolution.com/

注1:歴史や伝説上の著名な女性を39人選んで、彼女らの性器をイメージしたダイニングセットを陶器で製作し、巨大な三角形のテーブルに手製のクロスと共に展示した。

 

母と父権制2ー男のタネと女の穢れ

「母と父権制」を書いてから、ずっと考えていることがある。母そして祖母もなのだが、晩年になって夫を毛嫌いしていたということだ。あれだけ男子誕生をありがたがっていたのに、自分が選んだ男は露骨に尻の下どころか、下駄の下扱いだった。なぜだろう?

 母の場合は60歳を過ぎたあたりから、父の面前で悪口雑言を吐き、忌み嫌い、彼を遠ざけた。祖母の場合は同居しているのに完全無視。同じ食卓は絶対に囲まないという徹底ぶりだった。それぞれにきっかけや理由はあったのだろうが、夫婦のことは分からない。私が娘、孫として体験したことから考えてみようと思う。

 弟の誕生を喜び、血統の継続を喜んだ祖母と母が、晩年、夫への愛着も敬意のかけらすら見えない徹底した嫌悪を露わにした。かりに父権なり家父長を心底信奉していたのなら、形だけでも夫に仕えるポーズを取ったはずだ。自分らが選んだ男は期待した家父長とは似ても似つかぬ大外れ、ということだったのだろうか。

 確かに、男が男であるという理由だけで、一家の家長となって、一族の愛と尊敬を得ようというのは無理な話である。そういう男も万に一人ぐらいいたかもしれないが、ほとんどの家庭で男は、家父信奉に乗っかって、ハンパな家長を演じていただけではないだろうか。私の祖父も父も、母達から見れば、家長失格のダメ男だったのかもしれない。一体彼女達は彼らに何を期待していたのか。あれほど失望したからには、相当な期待があったはずだ。

 振り返ると祖母も母も、超のつくリアリストだった。母は特に貧しい暮らしの中から、立ち上がってきた人で、子供の頃から私に「手に職をつけろ、男に食わせて貰おうなどとアテにするな」と女の処世術を叩き込んだ。つまりは、ハナから家父長などは信じていなかったように思う。理由は不明だが、祖母を大きく裏切った祖父を見てきたから、という体験があったからかもしれない。

 

こうして考えていくと母達の父権制は無茶苦茶で、矛盾だらけだ。夫に失望し、まったく信じていなかったくせに、弟が残すべき血統は最後まで信じていた。要するに彼女らが信奉したのは、父権ではなく単なる男系の血、男のタネだった。このタネ優位信仰はしぶとく、同時にタネを持たない女は、男と比して劣っているという信仰へとつながっていたと思う。

 こんなことがあった。私が12歳の時、月経が始まり、月経の知識がまったくなった私は学校のトイレで血を見るというホラーに驚愕。保健室に駆け込み、泣きながら家に帰った。そんな私に対して、母は冷たかった。まず、自分が持っていた大人用の黒色生理パンツと脱脂綿を渡してくれただけで、どうすべきか何も教えず、たった一言「臭いから弟に近ずくな」。ガーン!

さらに、母と祖母から「早く色気付いて、ませた子だよ」と口汚く言われたことも、さらに私を追い詰めた。

「臭い」「色気づく」「ませた子」の烙印が12歳の少女にとってどれほどインパクトがあったか、想像してほしい。

この時、私は弟に負けたと思い、男に生まれなかったことを心底後悔したのだ。

 

月経を穢れ(けがれ)とする文化は日本に古くからあって、女が相撲の土俵に上がれないとか、寿司を握れないとか、天◯になれない、とかあれこれの制限を作ってきた。母は私の月経開始を穢れの始まり受け止め、自分と同じ劣勢の性の仲間入りをしたと感じたのではないだろうか。母のあの冷たさを思うと、彼女はそれをかすかに悲しんでくれたのではないか、と娘の私は想像したい。

女に生まれたことを最も後悔していたのは母だったのではないか。父より声が大きく、働き者で、機転が利き、強引で、自己中だった母は、男に生まれてこそその真価を発揮できた人だったように思う。だが女に生まれた故に穢れの烙印を負い、自己を抑えて生きねばならないと感じていた。そんな母の中には、決して満たされることのない大きな空洞があった。それは男のタネを育てる子宮という名の空洞であり、女であるというどうにもならない空洞だ。

女は父権制の価値観の中で、生まれながら自己蔑視を刻印されていたのだと思う。自分には穢れがあり、男より劣ると思い込まされることが、女にどれほどのダメージを与えてきたか、計り知れない。母が晩年になって、私をどんどん意識の中から消していったのも、期待をかけても無駄な劣勢の性だったからではないだろうか。そして父を憎んだのは、自分が得ることのなった特権を持ちながら、小さな野心しか持たなかったヘタレだったからではなかったか。自分の果たせない夢を託すしかなかった男が、期待以下の働きしかしなかったことへの憤り、母を思い出す時、この仮定こそが最もふさわしい気がする。

 

これだけ書いてくると、私の生きた時代は女の暗黒時代で、黒色生理パンツなんてサイテー、今は花柄ナプキンとピンクのタンポンの時代、女の穢れって何よ?と感じる人も多いのではないかと思う。確かに母や私が生きた昭和の時代は、日本が戦争と極貧を経験した時代で、母そして父たちも生き延びるために、金こそが自分たちを救うとガムシャラに働いた時代だったと思う。さらに言えば、私の祖母、母は共にエキセントリックなタイプで、盲目的な男のタネ信仰があったことは否定できない。同世代の女で祖母や母にたっぷりの愛と支援を受けて、自己蔑視とは無縁に生きた人たちがいただろうことも想像がつく。だが、システムとしての父権制は今でも厳然としてあり続けている。天◯のシステムがまさにその象徴だ。

老婆にしか見えなかった祖母が死んだ年齢より歳をとった自分が、今の日本の祖母、母、娘の関係を見渡そうとしても、日本にいなかった時間が長すぎて、よく分からない。女系の関係は少しは改善されたかのように見えるが、女の空洞は真に満たされたのだろうか。女であることが、昔とは別の形で女の人生を縛り、女の中心に大きな風穴を開けている気がする。そのことについては、また別の機会に考えてみたい。

 

母と父権制

去年の秋に母が逝った。介護施設で4年ほど過ごし、最後の年は認知症が始まって、私の顔も思い出せない状態だったが、あまり悲しいとは思わなかった。母の意識の中で、認知症が出る何年も前から私が消えていたことがわかっていたからだ。

私は海外で暮らして40年近くなるが、両親が存命中は年に2度ほど帰国して実家で過ごし、二人が施設に入った後は施設をよく訪ねた。だが、母の私への無関心はここ20年ほどでどんどん明確になり、私が施設に何度訪ねても、誰も会いにきてくれないと愚痴っていた。しかし、一昨年に父が逝った際、やはり海外にいる弟が数年ぶり帰国し、母を訪ねた時のことはよく覚えていて、弟しか訪ねてこないと言い張り、こないだ来てくれた時は嬉しかった、今度はいつくるのか、孫はいつ生まれるのかなどなど、弟の話ばかりをしたがった。

私は帰国するごとに、施設費の支払い状態の確認から毎回必要となる書類のサイン、相談員さんとの面談、預金等の管理、実家の管理などすべてを担ってきた訳だが、その認識も母からすっぽり抜けていた。それに気づいた時は随分と腹も立ち、悲しい気持ちも持ったが、よく考えると母はずっと弟しか見ていなかったのだ。彼の話によると、数年ぶりに母を訪ねた際、母は財産を全部彼に残してやるから遺言状を作ろうと持ちかけたという。この話にはさすが唖然となった。彼は相手にしなかったと言っており、溺愛と期待を一身に受ける苦労もあったのだろうと思う。

私が若かった頃を除いて、母は孫が欲しいという話を私にしたことがなかった。ところが、弟の子どもについては最後まで執拗にこだわっていた。このままでは、我が家の血が途絶えると嘆き、大変な執着を示していたのだ。

これがこそが私が体験した母の父権制、いや日本の父権制の実態だ。要するに女は無価値ということ、私はそれを母との関係を通してしっかりと体験させてもらった。

 

今、話題になっている元号に絡む男系のみが後継者という制度も、煮詰まるところ母の理屈と一緒。平たく言えば、血統を守るためには男の精子がタネとして唯一無二のものであり、女の卵と子を宿す子宮には価値なし、という論理だとおもう。これってすごく変じゃないか?

 ちょっとツッコミを入れたい。

男子から発射された数億という精子を、たった一個の卵子が受け入れて受精卵が生まれる訳だが、このメカニズムの美しさよ。たった一個の卵子精子を選ぶ力があるという方に、私は奇跡的、感動的な美があるように思えるのだが。しかも、男子は一発発射だが、女子はその奇跡の受精卵を9け月もの間、自らの子宮で育てる訳で、その間に食べるもの、聞いた音楽、感情的体験などなど、受精卵からから胎児へと変化していく過程で健康と教育も女子が担っているのだ。それを完全無視か?! ただの子産み道具、下手すればズタ袋扱いするってのは、ヒドクないか。受精卵は女子の遺伝子情報も一杯入っている訳だし、精子だけが純血の証明というのはかなり非科学的で、ただの屁理屈、無理強いじゃないのかとおもう。

 こんな屁理屈がまかり通ってきた唯一の理由は、男に子を産むことができないからだろう。だから、女を俺の女として家に囲い込んで、性関係を結んで子を産ませることで、自分の子であると後ずけ的に認識し、私有財産を継承させてきた。女は無価値であると同時に、女が流す経血を穢れたものとすることで、さらに劣等意識を植え込み、管理し、男子の血統という幻想を守ってきたのが父権制のコアだ。

今はDNA鑑定なんかあるから、誰が父親というのはすぐに分かるとしても、昔は女しか子供の父が誰かは分かっていなかった(もしくは女自身も解らないケースもあったろう)わけだから、男の血族の証なんてだだの幻想に過ぎなかったと思う。

 

で、ここでさらに一考察したのは、その幻想を私の母のように女たちが率先して守ってきた、ということへの驚きである。母は娘である私を無視することで、自分自身の性をも貶め、裏切ってきた。彼女たちの頑迷な父権信奉はどこから来たのだろう。

母は二人姉妹で男兄弟がいなかったこと、それも大きかったかもしれない。弟が生まれた時の、母の母である祖母の喜び方は大変なもので、彼女は弟を溺愛した。バチンコ大好き婆さんで、玉が入った日は景品のビスケットやチョコ、キャラメルなどを弟にすべて与えていた。私たちはおこずかい10円で駄菓子しか買えなかったのだが、弟が高価な森永キャラメルなど一人で食べているのを何度も目撃している。おかげで彼は虫歯と戦わねばならなかったわけだから、溺愛されるのも楽ではない。

母も祖母も戦前を生きてきた人なので、きっちりとした父権制で継続してきた元号を作る制度から大きな影響を受けたと思う。男にこそ価値あり、それはもう誰も否定できないドグマだったのではないだろうか。

それにしてもである、母や祖母の弟への溺愛と、娘である私への無関心ということを思うと、何か深く暗い穴を覗き込むような怖さがある。女の女への裏切り、これこそが父権制の最も醜い部分であり、女同士を無意味に争わせ、女を小さく、狭い場所に押し込めている刷り込みではないかと思う。

元号が変わり、祝賀パレードを沿道から見ようと、旗を持って駆けつけた多くの女性たちを見ていると、何を考えているのだろうと思う。女に価値はないという制度の象徴を祝賀するという無自覚に呆れるばかりだ。彼女らの多くは戦後生まれのはずで、なぜ?と思わずにはいられない。

 

母が最後まで心配した母方の家系はたぶん私で終わるだろう。Done, 断絶である。

家系を残すこと自体に何の意味があるかも分からないのだから、仕方あるまい。

こんな風にして、少しづつ父権制が崩壊してほしいという願いは強くある。

 

elles@centrepompidou

 


写真クレジット: elles@centrepompidou

10年以上前に初めて訪ねたパリで刺激的な展示会を観た。その時に興奮して書いた記事をここで復刻しよう。

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ポンピドゥー・センター内にある国立近代美術館のelles@centrepompidou (彼女たち@centrepompidou)で、美術館のコレクションの中から選ばれた女性アーティスト200人の500作品が一挙に展示された特別展だ。20世紀初めから現在までの女性アーティストの作品を網羅し、国立美術館の展示会としては最大規模、世界でも初めてとのことだ、という。3年以上もかけてこの展示会を準備したキューレーターは、同センターのカミーユ・モリノー。


実は、こんな珍しい展示会があるのも知らず、広い国立近代美術館内をウロウロしているうちに偶然見つけた。気が付くと「ゲリラ・ガール」ポスターの前にいて、思わずニタリ。見回せば、女性アーティストの作品群のまっただ中にいたのだ。

 

まず目を引いたのが、シュザンヌ・ヴァラドンの『青い部屋』(1923年)、この展示会の中では比較的古い時代を代表した作品。これまで幾度も西洋絵画に描かれてきた女性の構図だが、その同じ構図を使って描いた新時代の女の姿。「スゴっ」と圧倒される作品だ。ヴァラドン印象派の画家たちのモデル出身で、ユトリロの母。晩年になって息子より若い男に恋をして…なんて奔放な生き方を貫いた人だ。


通路の目立つ位置に置かれた、ニキ・ド・サンファルの彫刻『花嫁』(1963年)も際立っていた。胸の辺りがゴチャゴチャしていて、幸せそうにも美しくも見えない花嫁で、直感的に浮かんだ言葉は「結婚の幻想」。サンファルは同じ年に出産、娼婦、魔女など、女をテーマにした作品を制作、その後豊かな色彩と躍動感のある『ナナ』シリーズや『射撃絵画』で世界に知られるようになった人。那須高原に「ニキ美術館」がある。

女性のモノクロの顔写真の上下に"Your Body is a Battleground" (「あなたの身体は戦場だ」の意味、1989年)と赤い帯に白地の大きなタイプ文字が描かれたバーバラ・クルーガーの一連の写真も強烈だった。一目で彼女のメッセージが伝わるストレートでインパクトのある作品。アメリカ人でコピーライターをしていた彼女は「言葉の魔術師」と呼ばれているとか。

その他、画面左側に60年代風の化粧をした女性モデルのグラビア写真とその右側に化粧落としに使われた汚れたコットンやティシューが無造作に置かれたミックスメディアの連作や、顔を覆う黒いベールに穴を空ける女性を映したビデオアートなど、名前は思い出せないが一見してアーティストの意図が伝わるウイットと風刺精神に富んだ作品の数々に目を奪われた。

一方、日本の前衛の草分け的存在である田中敦子の電球と管球が点滅する『電気服』や、死んだスズメにピンク色のニットを着せたフランスのアネット・メサジェの一連の作品など前衛らしい作品も多く展示され、目がグルグル。前衛アートは良く分からないが、「何だろう?」と首を捻りながら観るのも楽しかった。

女は文学や詩、歌や踊り、ファッションやクラフト、料理などを通じて常に何かを表現してきたと思うが、ビジュアルアートに限ると20世紀は女性アーティストの黎明期だったのではないだろうか。女たちが新しい表現手段を得て、手探りでさまざまな表現に自己を託していった100年間をこの展示会を通して振り返る感覚があった。

全体を通した印象は、女の性抑圧や美の幻想を撃つフェミニスト・アートと呼べるような作品が多かったこと。20世紀を生きた女性アーティストにとって、女の状況を反映させること抜きに自分の表現はあり得なかったということなのだろう。

彼女らの作り出した斬新で残酷、デリケートで過激、美しくてグロテスクな造形の数々に、20世紀の女たちの粗い息吹が伝わる。フェミニズムの運動が、女性学という形で学問の世界に収束してしまった20世紀後期になっても女性アーティストたちはこんなにも熱く、こんなにもビビッドに自分たちを表現していたのだ。その発見に胸が熱くなった。

近代美術館内は、夏休みのせいもありフランスの中学生や高校生の団体も多くいた。はたして21世紀の少女少年たちはこの挑発的な先人たちのアートをどのように見たのだろうか。