上野の森、裸、はだか、ハダカ、

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去年の秋、上野にムンクの美術展を見に行った帰り、西洋微物館の前で、この大看板が目についた。

ルーベンス展かあ、見たいかなあ」と思っていると、大きな声が聞こえた。「ハダカばっか!」声の主は母親と歩いていた8-9歳の女の子で、「なんかイヤだあ~」というトーンの声。すると、隣を歩いていた5歳ぐらいのたぶん妹も「ハダカああ、ばっか」「ハダカああ、ばっか」と負けずに大声で繰り返す。母親は困った顔をしていたが、私はなんだか嬉しくなった。

子供の頃からお絵かきが好きだったせいで、家にあった西洋名画全集を初めて手に取ったのはたぶんこの女の子ぐらいの時だったと思う。母がルノアールが素敵だとか言っていたので、ルノアール編を見たら、「女の人のハダカばっか」、ルーベンスも見たと思うが、肉感的なハダカの女たちがゴロゴロ出てきて、これも「ハダカばっか」という印象、恥ずかしような、ドギマギする気持ちになってじっと見ることが出来なかったことを覚えている。

その後、たくさんの西洋絵画の画集を見て、たくさんの女のハダカを見ているうちに慣れてしまったと思うが、改めて、なんで西洋絵画には女の裸を描いたものが多いのだろう。

「女の裸は美しいから」って大前提は無意味。男の裸だって美しい。ミケランジェロを持ち出すまでもなく、男の裸も美しい。だけど、女のハダカばっかみた結果、なんとなく「女のハダカは美しい」みたいな認識を盛大に意識に刷り込んできた。さらにいえば、女は見られる対象なのだから、容貌が整い、裸体も若く均整がとれたものこそが美しい、みたいな決まり事を皆信じるようになった。

西洋絵画にはなぜ女のハダカが多いのか。要するに男が描いていたから、というのが正解だろう。女の画家がいなかった訳ではないと思うが、長い西洋の絵画の歴史の中で、女が画家として真っ当な援助を受け、自立し、作品を残せたかと言えばノーだろう。女が画家として立てるようなったのは、たぶん20世紀に入ってからだと思う。

で、20世紀である。最近になって、フェースブックで「20世紀のモダンアート」いうページに「いいね」をしたら、毎日毎朝、律儀に絵画作品がポストされ、我がFBのページは絵画の洪水。しかも、その半数以上が女の裸を描いたものだった。20世紀になると前世紀のような「お上品」なハダカより、なんだかポルノみたいな絵画、例えば女性器が丸見えとかの作品がガンガン出てくる。うんざりして脱会。女の画家もいたと思うが、毎日ポストされるヌード画の描き手はほとんど男だった。20世紀の男性画家たちもせっせと女の裸を描いていたようで、おかげでヌードモデルで稼いだ女たちもたくさんいたんだろう。

私も若い頃にヌードモデルをしたことがある。ペイが並外れて良かった。当時の時給はラーメン屋店員200円(この仕事もしばらくやった)に対して、時給7000円ぐらい。やった理由は、人前ましてや男の前で、自分の裸を晒すなんて考えられない、と思っていたから。自分の裸も嫌いだった(上記の刷り込みがあったからな)。だが一方で、そういう自分を壊したいという強い欲求もあって、やってみたのだ。
大きな絵画クラスのモデルの仕事だった。老若男女混合で、大勢の人が自分を見つめている前で、パッと裸になる。そのときのすっからかーんとした感じ、すごーい、自由だった。自分は怖いものなんか何もない、若い私はちょっと感動すらしていた。だが、数回やると銭湯に行くのと一緒、ただの仕事になってしまい、つまらないので辞めた。じっとしているのもタイヘンだったし、、、

私はヌードモデルの仕事を蔑視している訳ではない。自分にとっての意味がなくなってしまったから辞めただけで、プロとしてポーズを決め、不動を続ける厳しさを持った仕事だと思うし、つまらない仕事などと言う気もさらさらない。

日本絵画の歴史には明治まで女の裸体を描いたものはほとんどなかったと思う。明治になって渡仏した画家たちが帰国して油絵具で裸体画を描き始めてが、始まりではないかと思う。では、なぜ日本の絵画では女の裸体が描かれることがなかったのか? 考えてみると面白い気がする。

裸、はだか、ハダカというテーマではまたきっと書く機会があると思う。