私は「ネガティブ」

先日、町の画家たちが集まる写生会に初めて参加した。島暮らしなので、写生会はもっぱらビーチで行われているが、時々滝のある景観地というか森の中というか、正直ジャングルみたいなところでも写生をしているようで、ネット付き帽子や蚊除けスプレー持参のことなんて注意書きがある。確かに、水のあるところにいる蚊は猛烈だ。ゲェー、スゲー、そんな場所で何時間も写生するんだ、と感心。私は写生道具(最低椅子とかイーゼルとか)も持っていないし、蚊の猛攻撃と戦う自信がないので避けてきた。今回、初めて町中にあるカヌーの船着場での写生会だったので、折りたたみ椅子を購入して参加したのだ。

 参加者は四人ほど、皆シニア世代で、適度にフレンドリーでホッとした。絵描きの人って、いろいろなタイプの人がいて、フレンドリーなんて人の方が少ない気がするし、私自身あまりフレンドリーではない、ということが最近になって分かってきた。できれば、あまり人と薄っぺらな社交会話をしたくない、嘘くさい会話はあまりしたくない、という気持ちが強くて、いつもポツリ一人でいることが多い。

 それなのに、それなのに、である。シニア男子が話しかけてきた。

「君は絵を描くのが好きか? 楽しいか?」

「好きですよ、楽しんでます」と返事。

すると彼曰く「自分は楽しくないね。いつも自分は自分の表現したいことが描けているかと自問自答してるので苦しい。楽しく描くなんてことはないよ」

ムムム、確かに彼のいう通り。実は私もいつも苦しい、楽しくなんてない。楽しく絵を描ける人なんているんだろうか、と思う。それなのに、私は嘘をついて、好きだ、楽しいなんて言ってしまった。情けない話だ。

 嘘をついた理由は、初対面の人にネガティブだと思われたくなかったから。なぜなら、私が正直に自分の感じていることを話すと、「ネガティブだ」とよく言われるからだ。自分では心配性の性癖はあると思うが、ネガティブだと思ったことないので、首をひねる。

前述の男性、彼はネガティブだろうか。私はそう思わない。正直なだけだ。絵を描くなんて魔物と取引を始めてしまった人間なら誰もが感じる苦しさを語っただけで、その苦しさがあるからこそ絵を描くことに惹かれてしまうのだ。

私をネガティブと断じる人はいつも女性で、そう断じた後に必ず「私はポジティブで、楽天的だから」みたいなことを必ず付け加える。なぜなんだろう? 自分がポジティブであるということを確認するために、私をネガティブにしているようにも聞こえる。

 日本では元号が変わって、マスコミはこぞって一大祝賀ムードだった。街頭インタビューで「元号が変わって、気持ちも新たになって嬉しいです」などと喜びを語る女性たち。そんなニュースを見ながら、どうして元号が変わると嬉しいのだろうか?と私はマジで首をひねった。彼女たちは元号が変わることで、どんな実際的恩恵をうけているのだろう。私には彼女たちのエキサイトメントが分からない。

 ついでに言えば、元号を存続させる制度そのものについて、誰も疑問を投げかけないのも不思議だ。この制度はずっとあるから今後も継続、疑問受け付けません、という鉄壁の構えがあるように思う。しかし、山がずっと同じ場所にあることに誰も疑問を感じない、ということは全然別のことだと思う。この制度を作り、守ってきた理由があり、過去の政権はそれを利用して戦争をしてきたこと、もう忘れてしまったのだろうか。

祝賀ムードの最中、こんなことを言うから、ネガティブって言われるんだろうが。

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デッサンのクラスで学んだことの一つにネガティブ・スーペスがある。コーヒーポットの取手を例にとると、取手そのものではなくて取手が作り出すスペースのことをネガティブ・スーペスという。このスペースを確実に捉えらると、逆に取手の形、ボジティブ・スペースが正確に描ける、というもので、実際にこれは大変役に立つ。

 目に見えものには光と影があり、ボジとネガがある。ボジだけ見ていては掴めない形があり、光の部分だけを語って影を語らなければ、物事の全体像は見えない。だから光も影も見つめる。影を語る、両方あって当然ではないか。

私は「ネガティブ」でケッコウ毛だらけ、ということで今日もゲージュツ大爆発だ。