祖母とパチンコ、酒とプロレスと、、、

母方の祖母とは彼女が亡くなるまで一緒に生活した。私が小6の時に脳溢血で倒れ、入院することもなく、薄暗い自宅3畳間で二日間ほど大いびきをかいたのち、あっという間に亡くなった。私には老婆にしか見えなかったが、享年は63歳。アルコール依存症が彼女を老いさせたように思う。

八丈島の出身で、網元で大きな旅館も経営していた裕福な家の末娘だったという。よそ者の理容師の祖父と結婚し、その後東京に出てきた。結婚後も何もせず派手な着物を着て遊びまわっていたというのが母の話。どこでどう遊んでいたのか。浅草辺りの繁華街か、酒場か、博打場か、内実はわかないが、不良の匂い芬々たる人だった。

母が結婚して私が生まれ、理容店を始めて大忙しな頃、家事一切を任された。だが、家事嫌いでパチンコばかりしていたので、母はよく私に祖母をパチンコ屋から連れ帰るよう命じた。夕飯の支度をさせねばならなかったからだ。
パチンコ屋で私の顔をみた祖母はいつも怖い顔になり、鋭い声で床に落ちたパチンコの玉を拾ってこいと命じるのが常だった。
5-6歳だった私は仕方なしに、四つん這いになって玉拾いをし、見つけると嬉しくなったものだ。しかし、チンジャラジャラ、チンジャラジャラのパチンコ音と軍艦マーチが耳をつんざく中で、店員に見つかると「出てこい!」と怒鳴られるのも常で、結構ビビりながら拾っていた。
祖母を迎えにパチンコ屋、玉拾いのルーティンはその後何年も続いて、弟を連れて行くようになってからは二人で玉拾いをしたと思う。大したタマである。

料理が嫌いだから下手くそで、特にひどかったのはサバのみそ煮だった。彼女がサバを煮た後は必ず数日間生臭いサバの匂いが家中に立ち込めた。私はすっかりサバ嫌いになり、いまだにサバのみそ煮は食べたことがない。
当時好きだったのは、卵かけご飯と肉屋で買ってきたコロッケ。祖母の手が入っていないから食べられたのだと思う。コロッケの夕食の時は、皿にコロッケが2つのせてあるだけで、付け合せのキャベツも何もなかった。今思うと荒れた食卓であったが、他の家の食卓を知らなかったので、こんなものだと思っていた。

あの頃は醤油、油、味噌も酒もすべて近所の酒屋から量り売りで買っていた。瓶入り、袋入りが売り出されるようになったのは、1960年代頃だったのでないだろうか。量り売りの調味料を近所の酒屋に買いに行くのも私の役目で、祖母が毎日飲む酒も、平手造酒と筆字で書かれた5合入りの大徳利を持って、私が買い行った。

f:id:hawaiiart:20190624033945j:plain

5合徳利


祖母は、当時唯一の暖房器であった練炭火鉢のそばで、スルメイカを焼きながら5合をきっちり飲んでいた。機嫌の良いの時は八丈島の歌を身振り手振りに合わせながら、歌っていた。だが、なぜかその歌の節すら思い出せない。祖母の酔い方は上出来のミステリー映画みたいに予測がつかず、機嫌の悪い時は酒を買いに行けだの、夕食など作らないなど、と無茶苦茶を言うので、私にはずっと怖い人だった。

祖母が大好きだったのは、三波春夫とプロレス中継(*1)で、力道山全盛期時代だったこともあって、祖母の熱中ぶりは大変なものだった。何があれほど彼女を狂わせたのか、血が騒ぐという表現がピッタリのハマりようだった。あの頃は、まだ多くの家にテレビがなかったので、プロレス中継となると近所の人は電気屋のショーウインドに飾られたテレビの前に集まって鑑賞という状態だった。あの黒山の人だかりの中に小柄な祖母もいて、声援を送りながら見ていたのだろう。電気屋のプロレス中継にはいつも騒然とした、暴力的なムードが漂っていて、私たち子供は危なくて近ずけなかった。何しろ、時々酒に酔って興奮した見物人同士でプロレスさながらの殴り合いが繰り広げられていたのだ。皆の血が騒いでいた時代だったのだろう。

子供のテレビ鑑賞は、もっぱら近所の駄菓子屋、通称「がっつき屋」でだった。5円出すと一人30分だけ座敷に上がってディズニーワールドやポパイなどのアメリカのTV番組を見ることができたのだ。あの頃は日本で子供向けに作られたTV番組など全然なかったので、アニメもホームドラマもすべてアメリカ製、「ビーバーちゃん」とか「パパは何でも知っている」などなど。力道山が、白人金髪のブラッシー(*2)とかいうレスラーに空手チョップをお見舞いし、大人たちの血を騒がせていた頃、子供達はアメリカ製のアニメやホームドラマでうっとりと「文化的」生活に憧れ、洗脳を受けていたというのも皮肉なものだ。

余談になるが、「がっつき屋」は冬はおでんともんじゃ、夏はかき氷を出していたが、何しろ店を仕切るおばさんが怖かった。冬はもんじゃを食べるために集まる子供達の社交場でもあったが、グズグズ焼いて長居をしていると必ず怒鳴られた。おでんを買う時に誤って10円玉をおでん鍋に落としたことがあったが、「もう一度金持ってこい」と怒鳴られ仰天した。落とした10円は払ったことにならないのだ。憤慨したがおばさんの威圧的な声にクチュンとなって帰宅した。あのおでん鍋にはどれほどの10円玉が溜まっていただろうか。良い出汁になっていたに違いない。ともかくも、近所でも早々にテレビを買い込み、子供から金を取ってアニメを見せたビジネス力は大したものだと思う。

プロレス中継は、テレビの一般家庭への普及の大いに役だったマンモス番組だったと思う。当時の皇太子が一般人の女性と結婚(1959年)することになって、そのパレードを見るために一気にテレビが普及したというのが表向きのTV普及史だが、私はプロレス中継こそがテレビの普及に貢献したと思っている。

祖母への想いは複雑だが、私の生涯を支えてくれる映画との出会いを作ってくれたという大恩がある。その件については次回に書こうと思う。

*1:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%83%97%E3%83%AD%E3%83%AC%E3%82%B9%E4%B8%AD%E7%B6%99

*2:https://ja.wikipedia.org/wiki/フレッド・ブラッシー