毛糸の巾着袋

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こんな感じのイメージ

母が私に作ってくれたものを思い出そうとすると、必ず出てくるイメージがある。いやむしろ、そのイメージしか思い出せない。それは、濃い肌色の毛糸で編んだ弁当箱入れだ。毛糸の紐で上部を絞る巾着タイプの袋で、あれは確かに母が編んだものだと思う。私をそれを幼稚園に行く時に持って行った。

弁当箱は、赤というより小豆色に近い楕円形のアルマイト製、蓋に花の絵が印刷されていたと思う。昭和30年代初期、東京下町の幼稚園に持って行く弁当箱としては、なかなか「ハイカラ」なものだったのではないだろうか。

ところが、弁当箱の中身をどうしても思い出せない。食いしん坊を自認する私としたことが、どうしたことなのか。ただ、匂いははっきりと思い出せる。甘い卵焼きと暖かい白米に海苔と醤油が混ざった匂い。今でも鼻先に鮮烈に漂ってくるようだ。幸せの匂いリストを作るなら、あの匂いはトップ3に入る。

あの愛らしい弁当箱は、幼稚園に通い初めてしばらくして使うようになったものだ。その前は四角銀色のアルマイト製、味も素っ気もない実用本位のものだった。それが私だけの赤い花柄付きの弁当箱になり、おまけに毛糸のおくるみに包まれるようになったのだ。大した出世。私は有頂天となり、幼稚園のお昼が待ちどうしかった。あの毛糸のおくるみを開けて、私だけの弁当箱を開けることが、お昼を食べるという行為よりもずっとずっと、楽しみだった。
なぜ、あの弁当箱があれほどうれしかったのだろう。
あの頃、私は「自分だけの食器」を持っていなかった。幼い頃に使っていた小さなご飯茶碗や絵柄のついた箸がいつの間にか消えてしまい、家ではまるで定食屋のような食器を使っていた。家族と食事を一緒にしていた両親の店の従業員と同じ大きさ、柄の食器と、えんじ色の丸箸、それらが私の食器だった。そのことが気になっていた訳ではないが、弁当箱だけが「自分のもの」というのは子供心にも格別なものがあった。しかも、あの当時、店が忙しくて私の為に何かしてくれるなど予想だにしていなかった母が、私の為に毛糸で弁当箱入れを編んでくれたのである。5歳の私にもそれがどれほど貴重なものかは分かった、いや分かったというより、母親の愛情が直接伝わる実感があったのだと思う。
あの頃の母は、あんなもの作る心の余裕があった。その発見には微かな驚きある。しかし、あれが最初で最期だった。以降、母は私の為に何かを作ることよりも、何かを買い与えるようになった。だが、残念なことに、母が買ってくれたものを思い出しても、あまり嬉しくならない。クリスマスに買ってくれた金髪人形などは、どんな顔の人形だったか、思い出すことすら出来ない始末だ。きっと、あまり気に入らなかったのだろう。
よく覚えているのは、児童文学全集とか画集、地球儀、顕微鏡、どれもさほど嬉しくなかった。母がどういうつもりでこういうものを誕生日やクリスマスに私に買い与えたのか。これらは彼女が買ってもらえなかったモノ、彼女が憧れた階層の人々の家にあるらしいモノ、そういう品々だったのだと思う。立派な教養を身につけた人になって欲しい、そういう期待もぎっしりと込められていたのだ。
「教養を身につける」という言葉は、父の口からもよく聞いた。「教養を身につける」は、我が家において、高い位置置かれた価値だった。
大正末期に生まれた母は、小学校しか出ていない。小学校を卒業すると、祖父が営んでいた床屋を手伝い始めた。贅沢に育ったらしい祖母は、「派手な着物を着て遊び歩いていた」というのが母から聞く祖母像で、確かにいわゆる家庭的な躾を受けた人でなかった。祖母も曰く付きの人で、彼女のことは後述しよう。
12歳ほどで働き始めた母は、店を手伝い、家計をささえていた。家は貧しく、美味しいものなど食べたことがないが口癖で、当時食べたもので一番美味しかったのは、「素うどん」だった、という話は何度も聞いている。
10代の終わりからの青春期を第二次大戦下で過ごし、東京大空襲に遭遇し、自分めがけて飛んで着たB29のパイロットの顔が確認できた、という話も聞いているが、本当だろうか? 昔から話が大きくなる妄想傾向がある人だから、ちょっと信用がおけない。
戦後食べたもので、一番美味しかったのは「たぬきうどん」。世の中にはこんなに美味しいものがあるのか、と驚いたという話も何度か聞いている。確かに、母は近所の蕎麦屋から出前を取るときは、いつも「たぬきうどん」だった。「素うどん」から「たぬき」に昇格し、当然次は「天ぷらうどん」を食べたはずだが、その話は聞いたことがない。

母のことを思う時、あまり良い思い出がなく、嫌なことばかりを思い出す。私に対して優しい表情や笑顔を見せてくれた記憶もないし、母娘の絆のようなものもほとんどない。物心ついた頃から、この母から逃れたい、この家を出たいと思い続け、18歳でその思いを実現した。
母はどのような思いで弁当箱入れを編んだのか。その後の母の理容師・理髪店経営者としての精力的かつ強引な生き方を見ているだけに、毛糸を編んでいる母の像は想像がつきにくい。しかし、母にも幼い娘ために何か手作りのものを作ってやろうという気持ちになることがあったのだ。それは私たち母娘にとって稀有なつながりである。

あのイメージを思い浮かべる時、私の中にアワアワとした温かい想いが沸き起きおこる。