ジャクソン・ポロック


SFMOMA, "Guardians of the Secret"


だいぶ前に、サンフランシスコ近代美術館(SFMOMA)の75周年記念展示を見に行って、面白い絵と出会った。ジャクソン・ポロックの "Guardians of the Secret" だ。
ポロッアメリカの抽象表現主義を代表する画家で、その絵画法はキャンバスを寝かせてその上に絵の具を何色にも何層にも垂らして描くという独特なもの。50年代に画壇を賑わせたアクション・ペインティングと呼ばれる絵画運動の代表的な画家で、仲間としてはウィレム・デ・クーニングとかマーク・ロスコなどがいる。

"Guardians of the Secret" は、彼がその画法に行き着く以前の1945年頃に描かれたもので、SFMOMAはこの作品を当時たった500ドルで買ったと解説していた。今ではいくら位になるか見当もつかないらしい。かつて、ニューヨークの近代美術館(MOMA)でポロックの大作を何作か見ていたので、この作品はとりわけ興味深かった。


ポロックの作品は画集や写真などで見たことがあり、繊細でちょっと神経質な印象(写真上)を持っていたのだが、実際にMOMAで初めて見た時はその力強さに圧倒された。作品の大きさ(畳を横にして一畳半ぐらい)もあるかもしれないが、キャンバスの上で躍動する絵の具は生き生きと動いているようで、絵画というより幕末の侍が残した墨跡のよう。

墨痕淋漓という形容が似合う気合いが並外れ、同時に入念に重ねられた色の層には淡いピンクやブルーなどの都会的な洗練も感じられる。気迫と洗練の不思議なミスマッチがキャンバスの上で生き生きと躍動し、画集で見るのと本物がこれほど違うのかと、ポカンとしてしまった(写真下)。

彼の代表作は完全な抽象だが、"Guardians of the Secret"にはまだ具象のしっぽが残っている。画面の中心に完全な抽象への指向が認められる造形があり、その周辺にギリギリで具体性をもった人間や犬らしきものが描かれ、彼が自分の表現を模索していた様子がアリアリと見て取れる。MOMAでは、46年の "Shimmering Substance" も見ている。これは完全な抽象で彼らしい洗練された色使いが感じられるが、筆でキャンバスに描くという旧来のやり方で、独自の画法に到着するまであともう少し、という感じだ。



MOMA, "Shimmering Substance"


ポロックはどのように垂らし画法に行き着いたか。映画『ポロック 2人だけのアトリエ』(2000年)にその時の様子が描かれている。キャンバスを寝かせて描いているうちに、偶然絵の具がキャンバスの上に垂れて、それを見て「フム、オモシロいな」と思い、試しに垂らし始めたらどんどんオモシロくなって…ということだったようだ。つまり、偶然ということ。



写真クレジット:Sony Pictures

その時の彼はちょっと興奮していて、ウキウキしているように描かれていた。あれだけ試行錯誤をしたのだのだから、当然だろう。偶然を掴み、自らの画法として完成していくことが出来たのも、それまでの長い時間があったからこそだと思う。キャンバスに偶然絵の具が垂れた画家はポラックが初めてではないのだ。想像だが、彼が画法を模索していた時は、何かが見えそうでなかなか見えない状態だったのではないか。それが、垂れた絵の具をみて、見えない何かと繋がった。深い霧が晴れて、隠れていた風景がさーっと目の前に広がるような快感があったのではないだろうか。

映画の方もよく出来た作品で、実を言うとこの映画を観るまでポロックのことを知らなかった。以下は当時書いた映画紹介文の一部。

「『トゥルーマン・ショー』などの渋い演技で名優の風格が出てきたエド・ハリスが10年がかりで役作りをし、監督/主演(この役でアカデミー主演男優賞にノミネート)した会心の一作。
売れない貧しい画家時代、彼の才能を見抜いた画家仲間のリー・クラスナー(マルシア・ゲイ・ハーデン)は、ポロックを有名画商や裕福なコレクターと引き合わせていく。後に二人は結婚し共に画家として平和な生活を始め、ポロックは次第に絵筆を使わないアクションペインティングの画法を確立していく。
インスピレーションを待つ長い空白の時間、創作の躍動、焦燥、混乱など創造に向けて全身全霊を傾けるアーティストの実像に迫るハリスの演技が見どころ。また、夫の女癖酒癖の悪さにへき易となりながらも彼の才能を信じ、自身も最後まで画家であろうとした妻リーとの関係も丁寧に描かれ、定石通りのアーティストものを超える夫婦のドラマにもなっている。」


写真クレジット:Sony Pictures
「定石通りのアーティストものを超える」ところが本作の特徴で、とりわけクラスナーとポロックの関係がよく描けている。彼女は彼にとって最大の理解者であり、刺激的な画家仲間であり、率直な思いを彼にぶつける妻という立体感をもった女性として描かれている。ポロックが垂らし画法の作品を描き上げ、初めてクラスナーに見せるシーンで、彼女は作品をみて目を見張り「ついにやったわね」と熱い賛辞を送る。二人に説明はいらない、彼女は一目で彼の到達点の大きさを理解したのだ。

また、ポロックの作品を高く評価したアート・コレクターのベギー・グッゲンハイムを、エド・ハリスの実生活の妻エイミー・マディガンが演じている。グッゲンハイムはややエキセントリックなタイプとして描かれていて、たくさんの画家と浮き名を流したと言われる。彼女とポロックの間に何かあったかも、と思わせる場面があったように記憶する。脚本や撮影監督など女性スタッフで固めた製作背景で、クラスナーを演じたゲイ・ハーデンはとりわけ素晴らしく、この役でアカデミー賞助演女優賞を取っている。

夫婦で画家というと、妻が絵を諦めて夫に尽くすというパターンが多かったと思う。夫に尽くすのも女の一つの生き方だと思うが、クラスナーはポロックの死後もずっと作品を発表し続け、84年に76才で亡くなっている。

MOMAで66年の作品"Gaea"(横一畳半ぐらい)を見た。こういう言い方は好きではないが女性的な色使いの大胆で華やかな大作で、見ているとファーと光が顔に当たって、それが胸にまで広がる感じが気持ちの良い絵だった。彼女の作品もポロックと同じぐらい好きになってしまった。

MOMA, "Gaea"
ポロックは、ようやく有名になって作品が売れ出した矢先の56年に交通事故で亡くなっている。垂らし画法には到達したものの、その先が見えない。これだけ独特な画法だと何作も制作した後はマンネリ感もあったのではないか。いつも同じものばっかり描いていると批評されたかもしれない。次の展開が見えない苦しみが、酒浸りと浮気というお定まりの道に向かわせ、自殺に等しい事故死だったのではないだろうか。まだ44才だった。

サンフランシスコ近代美術館の英語公式サイト:http://www.sfmoma.org/
ニューヨーク近代美術館の英語公式サイト:http://www.moma.org/

毛糸の巾着袋

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こんな感じのイメージ

母が私に作ってくれたものを思い出そうとすると、必ず出てくるイメージがある。いやむしろ、そのイメージしか思い出せない。それは、濃い肌色の毛糸で編んだ弁当箱入れだ。毛糸の紐で上部を絞る巾着タイプの袋で、あれは確かに母が編んだものだと思う。私をそれを幼稚園に行く時に持って行った。

弁当箱は、赤というより小豆色に近い楕円形のアルマイト製、蓋に花の絵が印刷されていたと思う。昭和30年代初期、東京下町の幼稚園に持って行く弁当箱としては、なかなか「ハイカラ」なものだったのではないだろうか。

ところが、弁当箱の中身をどうしても思い出せない。食いしん坊を自認する私としたことが、どうしたことなのか。ただ、匂いははっきりと思い出せる。甘い卵焼きと暖かい白米に海苔と醤油が混ざった匂い。今でも鼻先に鮮烈に漂ってくるようだ。幸せの匂いリストを作るなら、あの匂いはトップ3に入る。

あの愛らしい弁当箱は、幼稚園に通い初めてしばらくして使うようになったものだ。その前は四角銀色のアルマイト製、味も素っ気もない実用本位のものだった。それが私だけの赤い花柄付きの弁当箱になり、おまけに毛糸のおくるみに包まれるようになったのだ。大した出世。私は有頂天となり、幼稚園のお昼が待ちどうしかった。あの毛糸のおくるみを開けて、私だけの弁当箱を開けることが、お昼を食べるという行為よりもずっとずっと、楽しみだった。
なぜ、あの弁当箱があれほどうれしかったのだろう。
あの頃、私は「自分だけの食器」を持っていなかった。幼い頃に使っていた小さなご飯茶碗や絵柄のついた箸がいつの間にか消えてしまい、家ではまるで定食屋のような食器を使っていた。家族と食事を一緒にしていた両親の店の従業員と同じ大きさ、柄の食器と、えんじ色の丸箸、それらが私の食器だった。そのことが気になっていた訳ではないが、弁当箱だけが「自分のもの」というのは子供心にも格別なものがあった。しかも、あの当時、店が忙しくて私の為に何かしてくれるなど予想だにしていなかった母が、私の為に毛糸で弁当箱入れを編んでくれたのである。5歳の私にもそれがどれほど貴重なものかは分かった、いや分かったというより、母親の愛情が直接伝わる実感があったのだと思う。
あの頃の母は、あんなもの作る心の余裕があった。その発見には微かな驚きある。しかし、あれが最初で最期だった。以降、母は私の為に何かを作ることよりも、何かを買い与えるようになった。だが、残念なことに、母が買ってくれたものを思い出しても、あまり嬉しくならない。クリスマスに買ってくれた金髪人形などは、どんな顔の人形だったか、思い出すことすら出来ない始末だ。きっと、あまり気に入らなかったのだろう。
よく覚えているのは、児童文学全集とか画集、地球儀、顕微鏡、どれもさほど嬉しくなかった。母がどういうつもりでこういうものを誕生日やクリスマスに私に買い与えたのか。これらは彼女が買ってもらえなかったモノ、彼女が憧れた階層の人々の家にあるらしいモノ、そういう品々だったのだと思う。立派な教養を身につけた人になって欲しい、そういう期待もぎっしりと込められていたのだ。
「教養を身につける」という言葉は、父の口からもよく聞いた。「教養を身につける」は、我が家において、高い位置置かれた価値だった。
大正末期に生まれた母は、小学校しか出ていない。小学校を卒業すると、祖父が営んでいた床屋を手伝い始めた。贅沢に育ったらしい祖母は、「派手な着物を着て遊び歩いていた」というのが母から聞く祖母像で、確かにいわゆる家庭的な躾を受けた人でなかった。祖母も曰く付きの人で、彼女のことは後述しよう。
12歳ほどで働き始めた母は、店を手伝い、家計をささえていた。家は貧しく、美味しいものなど食べたことがないが口癖で、当時食べたもので一番美味しかったのは、「素うどん」だった、という話は何度も聞いている。
10代の終わりからの青春期を第二次大戦下で過ごし、東京大空襲に遭遇し、自分めがけて飛んで着たB29のパイロットの顔が確認できた、という話も聞いているが、本当だろうか? 昔から話が大きくなる妄想傾向がある人だから、ちょっと信用がおけない。
戦後食べたもので、一番美味しかったのは「たぬきうどん」。世の中にはこんなに美味しいものがあるのか、と驚いたという話も何度か聞いている。確かに、母は近所の蕎麦屋から出前を取るときは、いつも「たぬきうどん」だった。「素うどん」から「たぬき」に昇格し、当然次は「天ぷらうどん」を食べたはずだが、その話は聞いたことがない。

母のことを思う時、あまり良い思い出がなく、嫌なことばかりを思い出す。私に対して優しい表情や笑顔を見せてくれた記憶もないし、母娘の絆のようなものもほとんどない。物心ついた頃から、この母から逃れたい、この家を出たいと思い続け、18歳でその思いを実現した。
母はどのような思いで弁当箱入れを編んだのか。その後の母の理容師・理髪店経営者としての精力的かつ強引な生き方を見ているだけに、毛糸を編んでいる母の像は想像がつきにくい。しかし、母にも幼い娘ために何か手作りのものを作ってやろうという気持ちになることがあったのだ。それは私たち母娘にとって稀有なつながりである。

あのイメージを思い浮かべる時、私の中にアワアワとした温かい想いが沸き起きおこる。

 

崎陽軒のシュウマイ

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ここ何年も菜食を続けているので、もう食べることはなくなってしまったが、忘れらない美味しさとして私の中にあるものの一つに崎陽軒のシュウマイがある。あの味は、家族旅行で必ず起きた小さなドラマと共に、忘れることが出来ない。

まだ新幹線などができる前の昭和30年代、家族で東京駅から東海道線に乗り、下田や熱海、湯河原などに出かける時、横浜駅で両親が必ず買ってくれたのが、崎陽軒のシュウマイだった。あの頃は、美味しい中華料理やシュマイなどを食べられる機会はめったになかったので、シュウマイはご馳走中のご馳走、私は東京駅を出る頃から横浜に着くのが待ちどうしかった。
シュウマイは駅弁として売られていたので、入れ物は経木で出来た長方形の弁当箱の中にシュウマイが何列か並び、陶器の四角い小皿と顔が書かれたひょうたん型の小さな醤油入れ、そのそそぎ口には直径数ミリほどのコルクの栓が付いていた(写真参照)。あの小さなコルクを抜くのも、ご馳走の前奏曲としての楽しみであった。
横浜駅のホームで売り子が列車の窓に売りきていたが、停車時間は長くなく、前に買った人のお釣りなどを勘定しているうちに、発車ベルがなり出したりすると、私は気がきではなかった。買えない時は、本当にガッカリしたものだ。

ある時、父と母が何を思ったか、シュウマイを買うためにホームに出て行った。私はホームと反対側の4人がけのボックス席で弟と両親が戻るのを待っていたが、二人はなかなか戻らない。ホーム側の車窓を背伸びしながら覗き、不安になり始めた頃、ついに発車ベルが鳴り出した。ところが二人は戻らない。私の不安は高まるだけ高まった。そして、ついに列車がガッタンと動き出し、発車。私はホームを必死に見ながら、泣き出していた。
すると弁当箱やらお茶、冷凍みかんを持った両親が車窓の外に見えて、大きな身振り手振りで何やら叫んでいる。だが何を言っているかは意味不明。かすかに次の駅で降りて待て、と言っていたように聞こえたように思う。たぶん、近くにいた乗車客も私たちを心配して、次で降りて待ちなさい、と教えてくれたような気がする。私が盛大に泣いたので、車掌が来たような気もする。

その後、何がどうなったか覚えていない。たぶん、私と弟は旅行鞄と一緒にどこかの駅で降り、両親は次の列車で到着、という経緯だったと思うが、細部の記憶は飛んでいる。ただ、覚えているのは、どこかの駅のホームで崎陽軒のシュウマイを食べたことだ。お茶は冷めていた。

父は持参のウィスキーの小瓶を出し、楊枝でシューマイを食べていたように思う。父にとっても上等な酒の肴のだったのだろう、彼が旨そうにウイスキーを飲んでいる横顔を覚えている。
あのウイスキーは、サントリーの角の小瓶だったように思う。

 

 

私は「ネガティブ」

先日、町の画家たちが集まる写生会に初めて参加した。島暮らしなので、写生会はもっぱらビーチで行われているが、時々滝のある景観地というか森の中というか、正直ジャングルみたいなところでも写生をしているようで、ネット付き帽子や蚊除けスプレー持参のことなんて注意書きがある。確かに、水のあるところにいる蚊は猛烈だ。ゲェー、スゲー、そんな場所で何時間も写生するんだ、と感心。私は写生道具(最低椅子とかイーゼルとか)も持っていないし、蚊の猛攻撃と戦う自信がないので避けてきた。今回、初めて町中にあるカヌーの船着場での写生会だったので、折りたたみ椅子を購入して参加したのだ。

 参加者は四人ほど、皆シニア世代で、適度にフレンドリーでホッとした。絵描きの人って、いろいろなタイプの人がいて、フレンドリーなんて人の方が少ない気がするし、私自身あまりフレンドリーではない、ということが最近になって分かってきた。できれば、あまり人と薄っぺらな社交会話をしたくない、嘘くさい会話はあまりしたくない、という気持ちが強くて、いつもポツリ一人でいることが多い。

 それなのに、それなのに、である。シニア男子が話しかけてきた。

「君は絵を描くのが好きか? 楽しいか?」

「好きですよ、楽しんでます」と返事。

すると彼曰く「自分は楽しくないね。いつも自分は自分の表現したいことが描けているかと自問自答してるので苦しい。楽しく描くなんてことはないよ」

ムムム、確かに彼のいう通り。実は私もいつも苦しい、楽しくなんてない。楽しく絵を描ける人なんているんだろうか、と思う。それなのに、私は嘘をついて、好きだ、楽しいなんて言ってしまった。情けない話だ。

 嘘をついた理由は、初対面の人にネガティブだと思われたくなかったから。なぜなら、私が正直に自分の感じていることを話すと、「ネガティブだ」とよく言われるからだ。自分では心配性の性癖はあると思うが、ネガティブだと思ったことないので、首をひねる。

前述の男性、彼はネガティブだろうか。私はそう思わない。正直なだけだ。絵を描くなんて魔物と取引を始めてしまった人間なら誰もが感じる苦しさを語っただけで、その苦しさがあるからこそ絵を描くことに惹かれてしまうのだ。

私をネガティブと断じる人はいつも女性で、そう断じた後に必ず「私はポジティブで、楽天的だから」みたいなことを必ず付け加える。なぜなんだろう? 自分がポジティブであるということを確認するために、私をネガティブにしているようにも聞こえる。

 日本では元号が変わって、マスコミはこぞって一大祝賀ムードだった。街頭インタビューで「元号が変わって、気持ちも新たになって嬉しいです」などと喜びを語る女性たち。そんなニュースを見ながら、どうして元号が変わると嬉しいのだろうか?と私はマジで首をひねった。彼女たちは元号が変わることで、どんな実際的恩恵をうけているのだろう。私には彼女たちのエキサイトメントが分からない。

 ついでに言えば、元号を存続させる制度そのものについて、誰も疑問を投げかけないのも不思議だ。この制度はずっとあるから今後も継続、疑問受け付けません、という鉄壁の構えがあるように思う。しかし、山がずっと同じ場所にあることに誰も疑問を感じない、ということは全然別のことだと思う。この制度を作り、守ってきた理由があり、過去の政権はそれを利用して戦争をしてきたこと、もう忘れてしまったのだろうか。

祝賀ムードの最中、こんなことを言うから、ネガティブって言われるんだろうが。

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デッサンのクラスで学んだことの一つにネガティブ・スーペスがある。コーヒーポットの取手を例にとると、取手そのものではなくて取手が作り出すスペースのことをネガティブ・スーペスという。このスペースを確実に捉えらると、逆に取手の形、ボジティブ・スペースが正確に描ける、というもので、実際にこれは大変役に立つ。

 目に見えものには光と影があり、ボジとネガがある。ボジだけ見ていては掴めない形があり、光の部分だけを語って影を語らなければ、物事の全体像は見えない。だから光も影も見つめる。影を語る、両方あって当然ではないか。

私は「ネガティブ」でケッコウ毛だらけ、ということで今日もゲージュツ大爆発だ。

 

 

ケーテ・コルヴィッツでゲージュツは爆発した

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これはドイツの19世紀末期の版画家、彫刻家ケーテ・コルヴィッツ晩年の自画像だ。
この作品をネット見つけたのは、この春受講していたFigure Drawing (ヌードのデッサン) のクラスで、Master Drawing(有名画家のデッサン)の模写の宿題が出て、どのマスターの作品にしようかと物色してた時だった。彼女のことはその時まで全く知らなくて、あれこれ探しているうちにこのドローイングに出会った訳だが、これがなかなかスゴイ体験だった。
模写をしながら、彼女が感じてた感情を体験、いや体験したと思えたのである。一見雑に見える線を真似しながら、線一本一本に込められたコルヴィッツの苦渋や絶望感、激しい情念までもがペン先に伝わってくる。描いているだけで、辛くなってくる、悲しくなってくる。大げさに聞こえるかもしれないけど、まるで彼女が乗り移った感覚があり、こんなことは初めてのことだった。

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これまで、Master Drawingの宿題は何度も出ていて、天才ダ・ヴィンチ(左)やミケランジェロ(右)、ドガ(下)という巨匠たちのデッサンの模写に挑戦して、まったく歯が立たないというか、模写してお近付きになろうなんて無理、初めから失礼いたしました、という惨敗感を味わってきた。それ自体は悪いことでは全然なくて、ただ鑑賞するだけだったら、決して知ることの出来なかった彼らのデッサンのスゴさを体験できたことは僥倖と言っていい。でも、模写しながら彼らの感情を体験する、ということはまったくなかった。

コルヴィッツに戻ろう。なぜ、こんなに強い感情を感じたのか。彼女の経歴を調べてみた。以下は安直でお恥ずかしいが、ウィッキーからの抜粋引用。ちょっと長いが、ぜひ彼女の生涯を知ってほしい。

 

彼女は1867年、東プロイセンケーニヒスベルク(現在のロシア領カリーニングラード)で、左官屋の親方である父カール・シュミット、母ケーテ・ループの間に生まれた。彼女は父の仕事場にいた職人から絵や銅版画を学び、父は17歳になった彼女をベルリンへ絵の勉強に行かせた。(中略)
1890年、彼女はケーニヒスベルクに戻り、港で働く女性たちの活動的な姿を版画に描くようになった。
1891年、結婚した彼女はベルリンの貧民街に移った。彼女は生涯描き続けた自画像に取り組む一方、スラムに住む彼女の周りの住民たちや夫の患者たちに強い印象を受け、貧困や苦しみを描く。

1897年に、ゲアハルト・ハウプトマン作の下層階級の人々を描いた戯曲『織匠』(Die Weber、1892年)を見た印象から制作した最初の版画連作『織匠』(織工の蜂起)を発表し、一躍脚光を浴びる。批評家からは絶賛を浴びたが、当時の芸術家のパトロンたちにとっては難しい題材であった。彼女はベルリンの『大展覧会(Große Kunstausstellung)』で金メダルにノミネートされたが、皇帝ヴィルヘルム2世は授賞に対する許可を与えなかった。

その後彼女はドイツ農民戦争を題材にした連作『農民戦争』(1908年)で評価され、版画に加えて彫刻も手がけるようになったが、1914年、第一次世界大戦の開戦一週間後に末息子のペーターが戦死した。社会全体に開戦への熱気が高まる中で息子のハンスとペーターが兵士に志願した際、彼女は止めるどころかむしろ後押ししてしまったこともあり、彼女は長い間悲しみにさいなまれた。

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戦後、彼女はペーターの戦死を基にした木版画による連作『戦争』(1920年)や労働者を題材にした『プロレタリアート』(1925年)を発表する一方、息子の死後17年間にわたり彫刻『両親』の制作を続け、1932年にベルギー・フランデレンのRoggevelde にあるドイツ軍戦没兵士墓地に設置された。後に、ペーターの葬られた墓地は近くのVlodslo に移転し、彫刻も移転している。彼女はその他、激戦地だったベルギー・ランゲマルク彼女は1919年、女性アーティストとしてはじめてプロイセン芸術院の会員に任命され、1929年にはプール・ル・メリット勲章を受章するなど、第一次世界大戦後の国家や社会の各層から高い評価を受け、多くの人々から親しまれた。一方で社会主義運動や平和主義運動にも関与し、『カール・リープクネヒト追憶像』の制作や、ドイツ革命後わずかな間存在した社会主義政府の労働者芸術会議に参加するなどの活動を行っている。

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1933年、ナチ党の権力掌握とともに「退廃芸術」の排斥が始まった。彼女も反ナチス的な作家とされ、芸術院会員や教授職から去るように強制された。彼女は最後の版画連作『死』および、母と死んだ息子を題材にした彫刻『ピエタ』(1937年)を制作するものの、1930年代後半以後は展覧会開催や作品制作など芸術家としての活動を禁じられた。宣伝省は人気のあった彼女の作品を『退廃芸術展』では展示しなかったものの、逆にいくつかの作品をナチスプロパガンダとして利用している。彼女の夫は1940年に病死し、孫のペーター(長男ハンスの息子)は東部戦線で1942年に戦死した。

1943年、彼女はベルリン空襲で住宅やデッサンの多くを失い、ザクセン王子エルンスト・ハインリヒの招きで、ベルリンからドレスデン近郊の町・モーリッツブルクに疎開し、モーリッツブルク城のそばのリューデンホーフという屋敷に住んだ。彼女は制作を禁じられた後もひそかに制作を続けており、最末期の作品には子供たちを腕の下に抱えて守り、睨みつける母親を描いた1941年の『種を粉に挽いてはならない』という版画作品がある。1945年4月22日、第二次世界大戦終結のわずか前、彼女は世を去った。

 

なぜ、私がこの自画像から多くの感情を体験したのか合点がいった。

ケーテ・コルヴィッツでゲージュツは爆発したのだ。

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上野の森、裸、はだか、ハダカ、

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去年の秋、上野にムンクの美術展を見に行った帰り、西洋微物館の前で、この大看板が目についた。

ルーベンス展かあ、見たいかなあ」と思っていると、大きな声が聞こえた。「ハダカばっか!」声の主は母親と歩いていた8-9歳の女の子で、「なんかイヤだあ~」というトーンの声。すると、隣を歩いていた5歳ぐらいのたぶん妹も「ハダカああ、ばっか」「ハダカああ、ばっか」と負けずに大声で繰り返す。母親は困った顔をしていたが、私はなんだか嬉しくなった。

子供の頃からお絵かきが好きだったせいで、家にあった西洋名画全集を初めて手に取ったのはたぶんこの女の子ぐらいの時だったと思う。母がルノアールが素敵だとか言っていたので、ルノアール編を見たら、「女の人のハダカばっか」、ルーベンスも見たと思うが、肉感的なハダカの女たちがゴロゴロ出てきて、これも「ハダカばっか」という印象、恥ずかしような、ドギマギする気持ちになってじっと見ることが出来なかったことを覚えている。

その後、たくさんの西洋絵画の画集を見て、たくさんの女のハダカを見ているうちに慣れてしまったと思うが、改めて、なんで西洋絵画には女の裸を描いたものが多いのだろう。

「女の裸は美しいから」って大前提は無意味。男の裸だって美しい。ミケランジェロを持ち出すまでもなく、男の裸も美しい。だけど、女のハダカばっかみた結果、なんとなく「女のハダカは美しい」みたいな認識を盛大に意識に刷り込んできた。さらにいえば、女は見られる対象なのだから、容貌が整い、裸体も若く均整がとれたものこそが美しい、みたいな決まり事を皆信じるようになった。

西洋絵画にはなぜ女のハダカが多いのか。要するに男が描いていたから、というのが正解だろう。女の画家がいなかった訳ではないと思うが、長い西洋の絵画の歴史の中で、女が画家として真っ当な援助を受け、自立し、作品を残せたかと言えばノーだろう。女が画家として立てるようなったのは、たぶん20世紀に入ってからだと思う。

で、20世紀である。最近になって、フェースブックで「20世紀のモダンアート」いうページに「いいね」をしたら、毎日毎朝、律儀に絵画作品がポストされ、我がFBのページは絵画の洪水。しかも、その半数以上が女の裸を描いたものだった。20世紀になると前世紀のような「お上品」なハダカより、なんだかポルノみたいな絵画、例えば女性器が丸見えとかの作品がガンガン出てくる。うんざりして脱会。女の画家もいたと思うが、毎日ポストされるヌード画の描き手はほとんど男だった。20世紀の男性画家たちもせっせと女の裸を描いていたようで、おかげでヌードモデルで稼いだ女たちもたくさんいたんだろう。

私も若い頃にヌードモデルをしたことがある。ペイが並外れて良かった。当時の時給はラーメン屋店員200円(この仕事もしばらくやった)に対して、時給7000円ぐらい。やった理由は、人前ましてや男の前で、自分の裸を晒すなんて考えられない、と思っていたから。自分の裸も嫌いだった(上記の刷り込みがあったからな)。だが一方で、そういう自分を壊したいという強い欲求もあって、やってみたのだ。
大きな絵画クラスのモデルの仕事だった。老若男女混合で、大勢の人が自分を見つめている前で、パッと裸になる。そのときのすっからかーんとした感じ、すごーい、自由だった。自分は怖いものなんか何もない、若い私はちょっと感動すらしていた。だが、数回やると銭湯に行くのと一緒、ただの仕事になってしまい、つまらないので辞めた。じっとしているのもタイヘンだったし、、、

私はヌードモデルの仕事を蔑視している訳ではない。自分にとっての意味がなくなってしまったから辞めただけで、プロとしてポーズを決め、不動を続ける厳しさを持った仕事だと思うし、つまらない仕事などと言う気もさらさらない。

日本絵画の歴史には明治まで女の裸体を描いたものはほとんどなかったと思う。明治になって渡仏した画家たちが帰国して油絵具で裸体画を描き始めてが、始まりではないかと思う。では、なぜ日本の絵画では女の裸体が描かれることがなかったのか? 考えてみると面白い気がする。

裸、はだか、ハダカというテーマではまたきっと書く機会があると思う。